2008年6月19日木曜日

2つの80年代の証言



一言にバブルと片付けられることが多い80年代。とはいえ、子供心にもあの頃は世の中全体が喧噪に包まれていたような気がしている。とはいえども、この2つの80年代を過ごした体験記は、そんなステレオタイプな80年代観とはあまりにもかけ離れている。


1つは、我が師匠、南博氏の『白鍵と黒鍵の間に~ピアニスト・エレジー銀座編~』である。ジャズにかぶれてしまったがために音楽高校を放り出された青年が、夜の銀座でピアノを弾き、やがてアメリカへ渡るまでを描いた自伝である。いわゆる青年が自己を確立するまでを描く立身出世物語(途中)であるが、それにしたって実体験で見たという銀座の一番コアな部分は、最近よく見るキャバ物語とはひと味もふた味も違う。おおよそ、普通に暮らしていてこのような世界がかいま見れることはほぼ皆無であろう。80年代の証言として、非常に興味深い。


こちらが金が飛び交い欲望の渦巻く、いかにもバブルらしいイメージの80年代だとしたら、もう一つの80年代はあまりにもかけ離れている。外山恒一氏の『青いムーブメント―まったく新しい80年代史』である。保守的な福岡の高校を退学した青年が、学生運動にのめり込んでいくまでを描いた、こちらも自伝である。80年代(自伝で書かれるのは正しくは80年代末~90年代会前半)に学生運動などあったのか? というのがおおよそ一般の持つ感想だろうが、外山氏の語る80年代にはそれは確実に存在した。そして、70年代安保とおなじように、時代の空気に突き動かされた文化的、政治的な盛り上がりが、外山氏の青春と共にこの本に描かれている。左翼がみな天皇崩御によって右翼のテロに遭うと信じ切っていたという、あまりにも奇想天外な終末論の話は白眉である。


どちらも同じ80年代の中でもかなりエクストリームな話であるが、この時代でなければ起こりえなかった出来事であろう。経済史的に見れば80年代はバブルであり、それを中心に歴史が編纂されるのが表の日本史だろうが、両方共に裏の証言であることが興味深い。外山氏の言う80年代末~90年代頭の運動=青いムーブメントは、青臭いものだったというが、同じぐらい南氏によって語られる銀座もダサイものだったように私には思えてならない。金がうなりを上げていても、最高級のクラブで演奏されるのはハワイアン崩れの音楽であり、オヤジやヤクザが慣れ親しむのは演歌であるのだ。そんな頃から考えると、いつからこれほどまでに世の中が目の色を変えて「本物」を求めるようになったのだろうか。



白鍵と黒鍵の間に―ピアニスト・エレジー銀座編

白鍵と黒鍵の間に―ピアニスト・エレジー銀座編








青いムーブメント―まったく新しい80年代史

青いムーブメント―まったく新しい80年代史










2008年6月9日月曜日

ウェブメディアへの幻想



私がまだ紙媒体の月刊誌を編集していた頃のことだ。ウェブメディアというのは、まだ海のものとも山のものともつかぬ物だった。当然、採算が取れようはずもなかったが、将来かならず伸びるという予想の下、さまざまな試行錯誤が続けられていた。


それから、何年か経って。ITMediaのように上場を果たす企業も出てくるなど、ウェブメディアは急速に金を稼げるものとなった。当初は「ページビューがあってもどこで金を取れるんだ?」といっていたものだが、視聴者から直接金を取らない民放が事業として成り立つのだから、ウェブが金にならないはずはなかった。しかし、その過程には実にさまざまなウェブメディアを巡る幻想があったものだった。否定的なモノも、肯定的なモノも、それらは誤解をはらんでいた。


既存メディアがウェブに食われてしまう、という言説がおそらくは最も代表的なものだ。これにもっとも執着していたのは新聞社だろう。ウェブも紙も、同じテキストと画像を扱うことから、新聞で載せているモノをウェブで載せることに抵抗感があったのだろう。だが、それも過去のモノとなった。そもそもウェブの読者と新聞の読者とは、別の層であることに気がついたのだろう。また、広告モデルで事業が成り行くようになったことも大きい。


もう一つ――それが今回の主題なのであるが――ウェブでは表現が広がるという幻想だ。



われわれ紙メディアの編集者は、限られた紙のスペースをどのように使うかに頭を悩ませる。レイアウトというレベルから、連載ページの奪い合いまで、文字数やスペースの制限と戦った経験の無い編集者はいない。そんな紙の人間からすると、ウェブは天国に見えたのだ。


ウェブでは文字の制限がない。個人のホームページには、実に偏執狂的につづられた長大な文章があふれているではないか。紙では短く切らざるを得なかった記事も、ウェブなら全てを収録することができる、と。ところがウェブで記事を書くようになって、これがなんとも牧歌的な幻想に過ぎないことを意識せざるを得なくなった。


ウェブでは長い記事など求められていなかったのだ。自分が読者になってみれば一目瞭然だが、モニターで長い文章を読むのはきつい。1行の文字数がぎっしりなモノは論外としても、縦にいつまでも続くような記事など誰も読みたくないのだ。ページ化がされたとしても、1ページ目で面白くなかったら、2ページ目など誰もクリックしない。


それに、ページ数もウェブでは5ページ以上は長いのだ。小説なら100ページくらい当たり前でも、ウェブでは10ページすら許容されない。個人ページなら読みたい奴だけが読めばいいで開き直れるが、商業サイトでは読者に読まれない記事は存在しないのと同じだ。


結局、ウェブで求められているのは、ページ数が少なくて、軽く読めて、それでいて少し扇情的な見出しが付けられていてついクリックしたくなってしまうような話題がほとんどなのだ。そもそもウェブサーフィンなんて呼んでいたものが、ザッピングそのものだったことからも明らかだったのだが。


だから、長文になりそうなコアなネタは、なかなか記事になりにくい。ページが多くてもウェブは紙代がかからないじゃないかと思っていても、視聴率の悪い記事はやはり紙代と同じように足かせとなる。紙の部数のようにいい加減なモノと違い、アクセス数が可視化されてしまう以上、ウェブの方がもっとシビアかも知れない。



もちろん、ウェブには紙にない可能性はある。動画の挿入やトラックバックなど、そのいくつかは発見されているとおりだ。紙には紙の、ウェブにはウェブの制限がある、ただそれだけのことだと最近は冷静に思えるようになった。


だが、たとえばとあるプログラミングの開発環境についてぎっしり分析した記事であるとか、不景気の紙媒体から取りこぼれた、コアな記事は一体どこに行けばいいのかという思いはある。かつての紙媒体が持っていたそういう偏執狂的な魅力は、今のウェブメディアには承継されていないように私には思うのだ。





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