2011年7月31日日曜日

Kurt Ellingによるキング・クリムゾンカバー - Matte Kudasai

40th Anniversary Editionの告知のところで書いていた、ジャズシンガーKurt EllingによるMatte Kudasai(待って下さい)のカバー。YouTubeで見つけたもの。結構普通にジャズしているが、原曲のイメージからそれほど離れていない。原曲にジャズのテイストがあったと言うことなのだろう。


70年代からのクリムゾンファンは、「Discipline」を買って「待って下さい」というタイトルにのけぞったと言うが、こうして聴くとなかなかの名曲である(私は昔から80年代クリムゾンは大好きだ)。アルバムにはそのほかにも、スティーヴィー・ワンダーの「Golden Lady」やビートルズの「Norwegian Wood」、マイルス・デイビスの名演で有名な「Blue In Green」などが収録されている。なかなか聴き応えがありそうだ。


【リリース情報】 King Crimson 40th anniversary edition - "Discipline" & "Starless and Bible Black"

http://www.burningshed.com/store/kingcrimson/product/313/3217/
意外にゆっくりと進められているキング・クリムゾンの40周年エディションだが、漸く2タイトルの告知が出た。今回は、「ディシプリン」と「スターレス・アンド・バイブル・ブラック(暗黒の世界)」がリリースされる。


「ディシプリン」には特典として、Old Grey Whistleというテレビ番組出演時の映像が付くらしい。ちなみに、下記がそれ。





「スターレス・アンド・バイブル・ブラック」には、"Law of Maximum Distress (parts 1 and 2) "、"The Mincer improv "、"Dr. Diamond "、"Guts on my Side "を含む9つのライブ音源が収録される模様。残りの5つが何かは現時点では明らかになっていない。

まぁ、前回リリースの2点もまだ買っていないが……ともあれ、これが本当に本当の最終盤となることをファンとしては祈るばかり(笑)。両方とも10月発売予定のようだ。

<追記>

「スターレス・アンド・バイブル・ブラック」には、DVDにライブ映像が含まれるらしい。また、両方ともアマゾンでは発売日が10月11日となっている。




2011年7月28日木曜日

レイ・ハラカミ急逝



ネットを徘徊してレイハラカミが急逝したというニュースを発見し、大変驚いた。レイハラカミの音楽は「Red Curb」とRovoのMan Drive Tranceでの共演しか聞いたことがないので、自分はそれほど熱心なファンではなかったが、間違いなく彼は2000年代を代表するアーティストの一人だった。

7年ほど前に京都の西部講堂で行われたP-Hourというイベントの打ち上げの席において、レイハラカミを見かけたことがある。大友良英や菊地成孔やアルフレート・ハルトやカヒミカリィに混じって、どこかで見た顔の人がいる、と思ったら、帰り際に大友氏が「原神くん、またね」と言うのを聞いて、「あ!レイハラカミだ!」と気づいた。ごく普通の平凡な青年という感じだったが、作る音楽にはエレクトロニカや音響派という言葉の先駆けとなる強烈な個性があった。

彼のサウンドは、それこそどこにでもあるようなMIDI音源を使って作られたかのようで、どこにもない音楽だった。メロディアスのようでもあり、そうでもないようでもあり、何というか澄み切った「空気」のようなものを生み出していた。レイハラカミをはじめとして、そうした「空気」を醸し出す音楽家の音楽を表現するために、エレクトロニカや音響という言葉が生み出されたのだった。

しかし、レイハラカミの「空気」の清々しさが矢野顕子とのyanokamiにつながったのは、自分としてはちょっと安直な気がしていた。それはちょうど同時期に坂本龍一がフェネスとアルバム「cendre」を作ったのと似ていて、お互いに似た音の世界観を持ったアーティストが組んでも、余り面白いと思わなかったのだ。そういうわけで、当時音楽雑誌の編集の立場にあり、他の人間よりも先にプロモ盤を入手していたにもかかわらず、yanokamiは聴き込むには至らなかった。

そういえば、yanokamiと言えば、想い出がある。矢野顕子さんにインタビューを取ろうと、ヤマハの担当者に連絡したら、「矢野さんはNY在住で、電話インタビューやメールインタビューはやらないんですよ」と言われて、せっかくの機会なのにインタビューが出来なかった。ところが、同時期のサンレコに堂々とインタビューが載っていてのけぞった。誰かNYまで行ったのだろうか(たぶんそれはないだろうから、業界筋に知られた國崎氏の力によるものだろうか)。ともあれ、レイ・ハラカミのような存在こそ、サンレコ読者の憧れだったに違いない。

まだまだやれることがあったはずだろうに、惜しい。



Jakszyk, Fripp and Collins - A Scarcity of Miracles




引退を表明したらしいロバート・フリップから、もはや最新音源を届けられることはないのではないかと思っていたのだが、唐突に新作が発表された。しかも、かつてのクリムゾンメンバーであるメル・コリンズとの共演であり、さらに"A King Crimson ProjeKCt"と銘打たれている。40th Anniversary seriesと同じDVD-AとCDのバージョンを購入してみた。

聴いた感想は一言で言うと、残念、である。まるで、ジャクスィクのソロアルバムのようだ。

もともとはこの作品は、フリップとジャクスィクとのインプロが元になっているらしく、DVD-Aにその元バージョンが収録されているが、それを聴くと本編と全く別物である。そこでは、フリップはほとんどサウンドスケープしか弾いていない。それが、このようにきちんとしたソングになっているというのは、おそらくはジャクスィクの作った楽曲に、インプロの素材を切り貼りして、ベース(トニー・レヴィン)とドラム(ギャヴィン・ハリソン)を足した、という作り方をしたのではないだろうか。当初、フリップはサウンドスケープしか弾いてないのではないかと訝しんだが、よくよく聴けば、彼特有のハンバッカーのロングサスティンサウンドが聞こえる。後で、ギターソロを足したのかもしれないが、今時Line 6あたりのシュミレーターでも作れるサウンドなので、ジャクスィクが弾いている可能性もある。

楽曲の質は悪くない。メロディ的に面白い展開をする曲もあるし、キングクリムゾンを思い起こさせるひねくれたリフも聴かれる。そういうところがフリップをして"A King Crimson ProjeKCt"と銘打たせるに至ったのかもしれない。

しかしだ。メンバー同士の共同作業によるマジック、かつての70年代のイエスやクリムゾンがやってきたような、ジャムセッションの中から素材を作り出し、皆で発展させていくという、メンバー間の相互作用がどうにも見いだせない。フリップのプレイは、ジャクスィクのソロ作品の素材でしかないかのようだ。イエスのアルバム「ユニオン」は、そうした共同作業が全く行えなかったことにより駄作となったが(これについては別のエントリーを上げる予定)、クリムゾンは80年代以降は一貫してリハーサルによるジャムセッションで楽曲を作ってきた。そのような共同作業が今回あったとはとても思えないし、他のプロジェクトもののようにインプロがそのまま収録されているわけでもない。それがきっと、この作品がジャクスィクのソロアルバムであるかのように聞こえてしまう理由なのだろう。

とはいえど、聴き所はある。楽曲は水準以上だし、ジャクスィクの声は平凡だが、陰鬱なメロディーには合っている。コリンズによる、メロディの合間を縫うような熟練のサックスプレイは、スターレスを思い起こさせる。レヴィンとハリソンのプレイは単なるセッションプレイヤーの域を超えて、魅力的なプレイを聴かせて作品に貢献している。フリップのギターソロが一番目立っていない。

結局、クリムゾンの名に期待しすぎたのかもしれない。おおよそ世間の評判も同じのようだ。フリップがクリムゾンの名前を付けなければ、評価は変わっていたかもしれない。興味を持たれた方は、DVD-AとCDのバージョンを購入することを強く勧める。上に書いたように、本作品の元となったインプロが聞けるからだ。ただし、大抵のDVDプレーヤーはDVD-Aを再生できるが、ほとんどのブルーレイプレイヤーはDVD-Aに対応していないので注意されたい。


2011年7月27日水曜日

語学における冠詞と、クラス/インスタンス

英語にせよ、フランス語にせよ、語学を学ぶ上で日本人がつまずきやすい箇所の一つが、冠詞である。

なぜ、この単語に"the"がついて、こっちは"a"なの? とか、なんで名詞そのままじゃなく"a piece of"とか付けなきゃならないの? とか思ったことはないだろうか。特に理系はなぜか英語が苦手な人が多く、こう言うところが英語嫌いに拍車をかけていることもあるだろう。私は、この冠詞についての考え方を、プログラムのクラス/インスタンスでうまく説明出来るのではないかと思ったので、試しに書いてみる次第。

まず、言語的な説明から行くと、不定冠詞"a"というのは、不特定のもの、初出のものを指し、一方、定冠詞"the"はある特定のものを指す。さあ、これで英語が苦手な人、逃げ出したくなったでしょう。これをプログラミング的に説明してみると、以下のようになる。

クラスからインスタンスを生成するには宣言が必要だが、その宣言する際にインスタンス(=名詞)付けるのが不定冠詞"a"なのだ。例文を見てみよう。
This is a pen
上の例文はまさに "pen"というクラスから、1つのインスタンスを生成したのだ。ちなみに複数形の名詞の場合には、冠詞無しで名詞の後ろに"s"を付ける。さて、このインスタンスをこれ以降使う場合、定冠詞(又は所有格)を付ける。
This is a pen.
The pen is blue.
"pen"というのはクラスの名前でもあるし、他のインスタンスでも"pen"という名前が有るかもしれない。それを区別するために定冠詞や所有格を付けるのである。

ではここでインスタンスではなく、クラス自体のことを語りたいときどうすればいいか。その場合にも定冠詞を用いる。あれ? インスタンスとごっちゃにならないか? と思うかもしれない。それは、文脈に由来する。インスタンス宣言をした後だと、"the"がついた"pen"は、そのインスタンスことだと相手が勘違いしてしまうかもしれない。でも、いきなり最初から定冠詞を付けた状態で話すと、それはクラスのことを指すのである。
The pen is an objet which is used for write letters.
(ペンは文字を書くために使うモノです)
なお、一部例外として、必ず定冠詞を付ける名詞が存在する。それは、この世の中に1つしか存在し得ないモノ、つまりインスタンスが1つしか作れないクラスと言う訳。たとえば、
The earth turns around the sun.*1
地球も太陽も一つしかないから、必ず定冠詞が付くのである。

というわけで、不定冠詞と定冠詞を、プログラムにおけるクラスとインスタンスに結びつけて説明するのはおしまい。本当は、英語よるもフランス語などの方が冠詞が厳密で、もっときちんとプログラムに例えて説明出来るが、本日はこのぐらいで。では。

*1 本当はthe earth revolves...だが、簡単な単語を使いたかったので。念のため。

2011年7月26日火曜日

水戸黄門は終わるべくして終わる

どうせ水戸黄門なんて熱心に見ている人など、こんな場末のブログを見ているはずもないが(もちろん私も見ていない)、しかし同居人が「もう終了だから」ということで、見ているので、つい見てしまった*1。わずか3分ぐらいだが。そして確信した。水戸黄門は終わるべくして終わるのだと。

黄門さまと来たらなんだ。わざとらしいつけ眉毛と顎髭はいいさ。むしろプラスだ。

問題はカツラだ。ヅラっていうだろう。あれは、カツラだとわかるから、カツラらしいとわかるからヅラなんだ。昔の時代劇はみんな、カツラと額の境目がはっきりしていた。ところが、今の黄門さまは、見事に額とカツラがつながっている。まるで本物ですと言わんばかりじゃないか。

カツラの境目の線がどれほど重要か、誰も考えたことなんてあるまい(もちろん自分もだが)。あれは境界線なんかじゃなく、むしろ逆にその両方をつなげるアリバイだった。テレビを見る視聴者に見せる、カツラの境目。「ああ、これは芝居なんだ。今の人がやっている芝居なんだ」。子供だってわかるさ。でも、いや、だからこそ意義があった。

印篭をかざし、それまでの敵方が一斉にひれ伏す。はるか昔の、本当にあったかどうかの出来事のつもりで芝居をやっていても、ヅラの線がその神話性をぶち壊す。「これは現実なんだよ、今と続いた。だってヅラじゃないか」

そして人は気づく。そこに、現代に生きる自分を投影できることを。会社の上司、近所の迷惑な人、理不尽な人々の振る舞い。ヅラで役者であることがばればれでも、その印篭で、悪人どもを手名付けられているかのように思うのだ。

ところが、その現実と芝居をつないでいた線は消えてしまった。いまあるのは、芝居というもう一つの現実。視聴者の人生と交わることのないパラレルの現実。いや現実というより、まさに昔実際にあった話でしかない。いくら雛形あきこが入浴シーンをやっても(やってるかどうか知らん)、ポロリもあったりしても、それは江戸時代の話のようなものだ。我々が見たことのない撮影現場と同じぐらい遠い世界の話。

斯様にして視聴者とのつながりを失った水戸黄門は、終わるべくして終わる以外にないのだ。

*1 正直言えば、これまで興味もなかったのに、ご祝儀で見てやろうなんて態度には幻滅するが、だからと言って別れたりしないから、男女の仲は不可思議だ。



きみはアドルフ・ヴェルフリを知っているか?



アドルフ・ヴェルフリ。1864年、スイスにて出生。1930年没。職業? 狂人とでも言えばいいのか? 画家かもしれない。詩人かもしれない。作曲家かもしれない。でも、やはり狂人と呼ぶのが一番しっくりくるかもしれない。え? なぜそんなやつの話をするのかって? 

それは、半生を過ごした精神病院で彼が生み出した、数々の「作品」がとんでもなく面白いからだ。作品にカッコをつけたのには意味がある。それは、われわれが芸術作品としてみているそれは、彼の誇大妄想が作り上げた、空想の世界だからだ。空想と呼んだのも我々の一方的な見方にすぎなくて、彼にとってはそれが現実なのかもしれない。うつし世は夢、夜の夢こそまこと。

折りよく発売されたCDの紹介文を引用してみよう(そんな妄想につきあった音楽家がいるのだ)。
1916年には誇大妄想も極まり、「聖アドルフ巨大王国」を建設、自らを聖アドルフ2世と命名、その王国を祝福してポルカや行進曲などの作曲まで始めます。病院では、自分が作曲した自らを称える歌をラッパで吹き鳴らしつつ描くヴェルフリの姿が見られたという笑えない話が残されています。(引用元:HMV) 
斯様な精神病者が作る「作品」のことを、アール・ブリュット(Art Brut)という。フランス語で、「生のままの芸術」とでも訳せばよいか。最初に着目した人間は、ジャン・デビュッフェ(Jean Dubuffet)だったと記憶している。 学生の時、その「作品」のいくつかを見たことがあるが、いずれも不気味なオーラを湛えた、何とも言い難い強烈なインパクトがあった。日本でも有名になったヘンリー・ダーガーを想起すれば、おそらくそのインパクトの一端を理解してもらえるのではないか。精神分析的に解釈するならば、抑圧された狂人たちの欲望が彼らの妄想世界に横溢しているのである。おそらくは彼自身もそれを自覚せぬまま。

アール・ブリュットの「作品」の多くには、執拗なモチーフの連続が現れる。草間彌生を想起してみよう。あの水玉ともなんともつかないモチーフは、女陰に見えてこないか? ある事象をある物語で置き換えることを精神分析と呼ぶなら、「作品」の精神分析的解釈はいかにも陳腐に思えるが、しかしそれでもアール・ブリュット特有の、あの、見てはならない人間の陰の部分を見てしまったような感覚をうまく説明しきれることはないだろう。そう、それはきっと自分たちの陰でもあるのだ。

<追記1>
私はかのヴォイニッチ手稿も、精神病者の書いたものではないかと思っている。現実には存在しない植物、法則性はあるようで解釈できない文字など、共通点は多い。

<追記2>
下記のリンクも非常に面白い。言語創作に関する逸話である。
http://psychodoc.eek.jp/abare/neologism.html

<追記3>
最近、このページへのアクセスが多いので、なぜだろうと思って調べたら、アドルフ・ヴェルフリ展をやっているという。90年代にはダーガーしか知られておらず、アール・ブリュットではなくアウトサイダーアートだったのが、今では随分と書籍が充実しているようだ。90年代に1度だけ行われたアール・ブリュット展図録とポンピドゥセンターで行われた展覧会図録ぐらいしか本がなかった昔からは考えられない話である。


Yes - Fly From Here




高中生まれプログレ育ちという育ちの悪さ(良さ?)を矯正すべく、クラシックとジャズに明け暮れたこの20年だが、やっぱり気になると言うことで、イエスの「フライ・フロム・ヒア」を購入してみた。

実のところ、イエスには興味を完全に喪失していた。ユニオンツアー来日公演を嬉々として見に行き、トークツアーも見て、結局は海洋地形学の物語編成に戻ったキーズ・トゥー・アセンション1まではまだ興味があったが、2がいくら経っても出てこないため完全にフェイドアウトしてしまった。さらに同時期、クリムゾンがプロジェクト名義で玉石混合のインプロをやり始めたことも大きく作用し、プログレから興味が完全に離れてしまった。

とはいえど、一応、イエスの動向は知ってましたよ。イゴールがセクハラやって解雇とか、ジョン抜きでコピバンのボーカリストとツアーしてるとか(あ、でもビリー・シャーウッドって誰だっけ?とは思った)。で、またもや「ドラマ」やってるんかい、と思ったら、アルバムまで作っちゃったというので驚いたというのが購入の顛末(ジェフの復帰と膨張具合にも驚いた)。

で、聞いて見た感想ですが、おお、確かにフライ・フロム・ヒアはいい曲だ。合間に陳腐なインストが混ざったりするが、イエスらしいサウンドになっている。ボーカリストも全然気にならないどころか、今のジョンよりいいんじゃないの?

でも正直、残りの曲がなぁ……。悪くはないんだけど、別に良くもないという平凡な出来。案の定、クレジットを見ると、各人のソロプロジェクトから素材を持ち寄ったような感じ。

余り多くは知られていないが、実はイエスのメンバー感の確執に相当なものがある。ユニオン時のプロデューサーであるジョナサン・エライアスのインタビューによれば、もはやメンバーが一斉に揃って曲作りすることすらままならない状況だったという。特にジョンに対する不信感は根強く、彼が金を全部かっさらっていくんじゃないかと皆が思っていたと言うから、恐ろしい(それに比べれば脱退したジョンをあっさり許した90125側は善人もイイトコロだ)。

そんな状況があった事から考えると、今のように曲がりなりにも共作できたことは、ファンからすれば嬉しいことである(要するにジョンがいなければみんなまとまると言うことか?)。付属のDVDを見ると、トレヴァー・ホーンをはじめとして、皆実にリラックスしているように見える。

でも、過去の素材の焼き直し、それもパートを付け足して水増しした曲で、ニューアルバムですというのは、ちょっとかっこわるすぎやしないか? YouTubeで見るライブはショートバージョン=ドラマ時のバージョンと余り変わらないし。



60歳を超えたメンバー達が、今でも精力的にツアーしているのは、実に頼もしいことだが(演奏は枯れているが。とくにハウは演奏も容姿も枯れている)、本当にイエスが素晴らしかった時期の作曲方法、つまりスタジオでみんなでアイディアを出し合い発展していく、その手法を再びよみがえらせるには、もはや皆ビッグネーム過ぎるのだろうか。有名バンドだけに期待が大きすぎるのかもしれないが、もう一度、ゼロから作った今のイエスの曲を聴かせてもらいたいと思うのは私だけではあるまい。

という、何とも複雑な1枚であった(そして私は「ドラマ」を注文した)。

<追記1>
このオフィシャルビデオクリップもちょっとなぁ……。


<追記2>
ギターマガジンとベースマガジンに、それぞれハウとクリスのインタビューが掲載されているが、これがなかなか笑える。特にハウは「もっと具体的な質問はないのか?」と繰り返すばかりの偏屈ジジイぶり。電話インタビューだろうけど、苦労したろうなぁ……(リットーには通訳・翻訳専門の人がいる)。

2011年7月25日月曜日

大里俊晴 - 『ガセネタの荒野』




一言で言えば、唐突な再版だ。

著者・大里俊晴は、2009年11月17日に逝去した音楽学者である。本著は、彼の青春時代に活動していたバンド「ガセネタ」*1について綴ったもので、もともとは91年に洋泉社にて刊行されていたもので、著者の生前唯一の単著だ。内容は、浜野純・山崎春美という2人の天才に大里が圧倒され、加速し続けあらゆるものを削ぎ落とし続けた濃密な時間についての記録である。

私自身のプロフィールとも重なるが、大里氏は私の兄弟子であり、先生でもあった。かつて、知人から斯様な本を書いていることは知っていたが、あとがきに「古本屋のワゴンで10円で並んでいることを願う」*2というようなことを書いていらしいと聞いて、常々探していた。それが、渋谷タワレコに並んでいたのである。しかも新刊。まったく唐突といったらありゃしない。帰りの電車で恐ろしい勢いで読みふけり、最寄り駅のベンチに座ったまま一気に読破した。

感想を一言で言うなら、読まなけりゃ良かった、である。

内容がつまらないわけではない。破滅するしかなかった者たちの記録のようでもあり、そこから逃げ出した大里氏の後悔のようでもある。ガセネタの音楽を少しばかり聴いたことがあるが、そのあまりにも鋭い音は、本著での大里氏の切実な心情吐露*3とよく似た、刹那的な音だった。自殺的といおうか、あるいはチキンランのような、とでも言おうか。このようなものを誰が書ける? ここまで赤裸々な心情吐露をあけっぴろげにすることが誰にできる?

しかしそれだけに、なぜ今?という唐突感がぬぐえない。

ガセネタの音源が10枚組みBOXで発売されるからか? 死後、関係者によって大里の業績を世に残すためだったのか? そのいずれでもあり、いずれでもないのかもしれない。

だが、自分は山崎春美の題字による装丁など見たくなかった。死して2人は和解したとでも言うのか? 追悼文集*4の山崎の文章は、ほかの誰よりも美しかった。それはこう結ばれている。「ほんとうは二人で、ぼくと大里との二人で、見知った見知らぬ人たち、少女たち、女の子たちを、片っ端から犯すしかなかったんだ。ぜったい。それ以外に未来はなかった。(略)そしたら、ぼくもきみも浜野もみんな一緒にいられたのになあ。」 やっぱり破滅以外に道はなかった。だから、こんな幻滅はない。

本当は、「出会うべき者はいずれ会う」のであれば、それは唐突でもないのかもしれない。けれど、やっぱりそれは古本屋のワゴンで出会いたかった。1400円もの金を出して、彼らの過ごしたアングラの空気を追体験した気になるなんて、どれほど陳腐なことか。そんな疑念が払拭できずにいるし、一方でどんどん発行してもう歴史にしてしまえよ、とも思っている。

追悼文集を我が家のトイレにずっと置き続けているのが、せめてもの自分の弔い方だ。

<追記1>
7/26のDommuneにてガセネタ特集があり、山崎晴美が出演して、ガセネタの曲を歌ったという。山崎氏のパーソナリティは、下の脚注3と全く正反対で、自分がどのように見られるかなどに無頓着なのではないだろうか。

<追記2>
結局、ガセネタBOXを注文してしまった。さらに、ディスクユニオンの張り紙で今後「タコBOX」「大里俊晴BOX」も出るらしいことを知った。本文のように書いたが、もういっそうのこと、伝説から引きずり下ろしてしまえという気分に変わった。

*1 バンド名は頻繁に変わったという。「こたつに吠えろ」「て」など。
*2 あとがきを読んでみたが、そのような記述はなかった。また、とある女性に本書を捧げる、というようなことも書いてあったと聞いたが、その記述もない。再販にあたり、遺稿を元にしたとあったので、削られたのかもしれない。その理由は自分には知るべくもない。
*3 大里氏を語るときに、彼の自己滅却的な性格(シャイとも書かれている)が多く口にされるが、私の評価は逆だ。大里氏は根っからのロマンティストだ。自意識が過剰であるからこそ、自分を消し去ろうとするのだ。自分に無頓着なら、さらけ出された自分にどんな評価を下されようとも、まったく意に介さないはずである。
*4 一部書店やネット経由などで購入できると思う。こちらは題字がジム・オルーク。そんな風にサブカル著名人を引っ張り出してくる感覚には、どうもなじめない。

【リリース情報】MILES DAVIS QUINTET – LIVE IN EUROPE 1967: THE BOOTLEG SERIES VOL. 1



マイルスのボックスものと言えば、中山康樹が激しく批判するように、看板に偽りありの期待はずれのものが多かったが、今回のリリースはこれまでとちょっと異なるようだ。なにしろ、タイトルがBootlegである。しかもVol.1。はびこる海賊版の撲滅と、マイルスの音源を体系的にリリースすることを、ようやくカスクーナが自覚したと言うことか?(マイルスの遺族がいろいろと妨害になっていたという可能性もあるかもしれないが)。

内容は、第2期黄金クインテット(マイルス、ショーター、ハンコック、カーター、ウィリアムス)のヨーロッパでのライブを収録したもので、ラジオ音源から取られている様子。パリ公演もあるが、フランスの放送局は高いロイヤルティを要求する事で知られているため、いろいろと交渉も難航したであろう。ブートレッグとあるが、Disc 2のデンマーク公演は初出の様子。ともあれ、CD3枚組+DVDの収録曲は以下の通り。

MILES DAVIS QUINTET - LIVE IN EUROPE 1967: THE BOOTLEG SERIES VOL. 1
(Columbia/Legacy 8869794053 2)


CD One – Selections:
1. Agitation
2. Footprints
3. ’Round Midnight
4. No Blues
5. Riot
6. On Green Dolphin Street
7. Masqualero
8. Gingerbread Boy
9. Theme. (Recorded on October 28, 1967 at the Konigin Elizabethzaal, Antwerp, Belgium by Belgian Radio and Television [BRT].)


CD Two – Selections:
1. Agitation
2. Footprints
3. ’Round Midnight
4. No Blues
5. Masqualero
6. Agitation
7. Footprints. (Tracks 1-5 recorded on November 2, 1967 at the Tivoli Konsertsal, Copenhagen, Denmark by Danish Radio; tracks 6 & 7 recorded and broadcast on November 6, 1967 at the Paris Jazz Festival, Salle Pleyel, Paris, France on France Inter [ORTF]. Radio Program Producer: André Francis.)


CD Three – Selections:
1. ’Round Midnight
2. No Blues
3. Masqualero
4. I Fall In Love Too Easily
5. Riot
6. Walkin’
7. On Green Dolphin Street
8. The Theme. (Recorded and broadcast on November 6, 1967 at the Paris Jazz Festival, Salle Pleyel, Paris, France on France Inter [ORTF]. Radio Program Producer: André Francis.)


DVD – Selections:
1. Agitation
2. Footprints
3. I Fall In Love Too Easily
4. Gingerbread Boy
5. The Theme
6. Agitation
7. Footprints
8. ’Round Midnight
9. Gingerbread Boy
10. The Theme. (Tracks 1-6 recorded on November 7, 1967 at the Stadthalle, Karlsruhe, Germany by Südwestfunk TV; tracks 7-11 recorded on October 31, 1967 at the Konserthuset, Stockholm, Sweden by Sveriges Radio TV.)


オフィシャルなので、音質はある程度良いだといいが……気になるのは、収録曲の関係か、1公演1CDでまとめられていない点だが、その分、価格が安く抑えられることを期待したい(現在、アマゾンで6000円強)。また、抜粋盤のCDも発売されるようだ。

http://www.milesdavis.com/us/news/miles-davis-quintet-live-europe-1967-bootleg-series-vol-1


HMVのサイトが詳しく内容を書いている。
http://www.hmv.co.jp/news/article/1107220061/

<追記>
マイルスのオフィシャルサイトでも販売をしている。日本へは送料合わせて4000円程度。アマゾンでもそのぐらいで売られていた時期もあったので、リリースまで値段を見て、どちらか安いほうで買うといいと思う。

You'd better to buy it from official store, because it is the most cheepest. But ocassionary it is also cheep from amazon. Choose carefully.

Je vous conseille d'acheter par le site officiel, parce qu'il est moins cher que les autres. Mais de temps en temps on peut en acheter par amazon moins cher que le site officiel. Choisissez attentivement.

Tord Gustavsen Trio - The Ground



「亡国ピアノトリオ」なんて物騒な言葉を唱える批評家もいるが、ジャズの世界で依然としてピアノトリオは人気がある。とかく素材そのものを楽しむ日本人にとっては、絢爛豪華なスイングジャズのビッグバンドよりも、簡素なトリオ編成のほうが好みかもしれない。

ところで、私は寝る前に音楽をかけるのを習慣にしているが(とはいえど、最近は鬱病で音楽を聴きたいという気持ちが減じているが)、同居人がその音楽に対して頻繁に文句を付ける。私自身は、それがフリージャズであろうが何だろうが眠れるのだが、同居人はテンポの速い曲は目が冴えてしまうと言う。同居人はメロディよりもリズムを感じるタイプの人間なのでそのせいもあるだろうが、寝ることを考えるともう少しテンポが遅いリラックスできる音楽の方が良いのかもしれない。

同居人の愛聴盤はBill Evansの「From left to right」であるが、よくよく考えてみるとジャズの名盤の中に、これほどゆったりしたテンポを基調とした静謐な音楽は、実は少ない。Jim HallとRon Carterの「Alone Together」ぐらいか? でもあちらは別にバラードアルバムというわけでもない。ということで、何か良いものは無いかとネットで調べてみたのだが、灯台下暗しとはまさにこのこと、うちにいくつもあるECM盤のピアノトリオがなかなかであった(亡国ピアノトリオの代名詞だ!)。

昨日、聴いてみたノルウェーのTord Gustavsen Trio「The ground」は、あたかも良質のピアノ小品にベースとドラムを付けたかのような趣。ハードバップ的なコンピングの代わりに、メロディを彩る対位的な音が入る。こういう音はジャズの本場の米国人には出せないだろう。アドリブ至上主義の批評家には受けが悪いだろうが、私のようにジャズを実際に演奏する側から見ると、ビバップからこれだけ離れてスイングしないジャズを演奏することは、ものすごい発明に思うのである。

スイングとは一種の麻薬で、一度はまると抜け出せない。初学者のころは、バラードを弾いていてもどうしてもスイングしてしまう。そのほうがノリが出せて、演奏しやすいからだ。スイングによるアウフタクトの魅力は、ジャズのセントラルドグマと言ってもいいくらいだ。でも、そこから離れて、クラシック音楽のようなスタイルを生み出したヨーロッパのミュージシャンのセンスは、アメリカ生まれの音楽を他国で演奏することの意義を我々に教えてくれる。

過剰にジャズがムード音楽化することに私も違和感を覚える一人であるが、音楽家は自分の音楽を演奏するのみ。リスナーは聴きたい音楽を聴くのみである。




2011年7月12日火曜日

検閲とメディア あるいは組織への個人の責任転嫁



もはや昨今の政局など、コメディでしかないのだが、それにしても松本ドラゴンの一件は、マスメディアのタブーを(ごく一部に)知らしめたという意味で、非常に面白かった。この一件自体はググって調べていただきたいが、知らない人に要点をかいつまんで言うと、復興担当相が宮城県知事を恫喝した一部始終を撮影していたにもかかわらず、「放送するな」というドラゴンの同和団体の圧力を楯にした脅しに、簡単にマスコミはいいなりになってしまったが、東北放送のみが放映し、ネットで広まるやいなや、他のマスコミも一斉に騒ぎ出したという一件。


これだけだと、マスゴミは権力に簡単になびくんだ、と言いたくなるだろう。だが、自分の見方はもうちょっと違って、なびくと言うより、もはや思考停止なんだと思う。なぜ、そう思うかって? 自分自身もそういう体験があるから。


それは、前職の某音楽雑誌の編集作業中のこと。先輩である30後半の女性編集部員が突如口を挟んできた。


「この黒人やニガーという言葉はね、ちょっとね~~~」


勘の良い人は、どのアーティストか分かると思うが、黒人アーティスト自身の発言にニガーという言葉があるのである。それが差別の意図を持っているかどうか、明らかであろう。しかし、彼女はこう主張するのである。曰く、その手の団体の人から抗議が来るから、小学館などの大手はこう言う言葉は校正で消されるから。


一応ツッコミを入れておくと、大手出版社でもそのような統一ルールはないし、平気で黒人やニガーという言葉は使っている。そのような事を抜きにしても、まさに彼女の考えは思考停止である。世の中のルールがそうだから、それに従わないと、というものである。


専門用語を使わせてもらうと、アメリカではこのような適切ではない言葉を指す「ポリティカリーコレクトネス(PC)」という用語がある。例を挙げれば、BlackではなくAfro American、BlindやDeafではなくHandicaped personと呼ぶ、など。


個別に見ればそのような言い換えに様々な背景があったのだろうと思うが、基本的にそれを履行する側は完全に思考停止である。件の先輩編集者と同じ、先例主義・ことなかれ主義である。ちなみに彼女は、アーティスト自身が語った宗教の話などにも口を突っ込んできたりした。


某乙武氏は差別語を止めて差別を隠蔽するより、差別語を堂々と言われた方がいいと発言して、ツイッターでちょっと議論が起きていたが、自分の考えも同じである。言葉そのものよりも、文脈やその背景にある意図が問題だし、そこに悪意があったとしても、反証可能性が用意されているなら、マスメディアとして隠蔽すべきではないはずだ。


だが、ココが情けないところなのだが、その当時の自分は、そんな風に言ってくる先輩編集者にある程度反論は試みたものの、小学館や講談社はそうしない、などというコンプレックス丸出し(彼女は編集/ライタースクール出身である)の発言を続けるばかりの彼女と言い争いをしても面倒なので、そういうならそうしておけばいいや、と思ったのである。


なんのことはない、自分も思考停止である。


ココで終わってしまうと情けないオチなので少し付言するが、こういった組織の中で行われる犯罪行為と個人の罪悪感を調べる実験に、囚人に電気ショックを与える実験(実は与える方が治験者)がある。ナチスの組織犯罪の裏にある心理的背景を探る試みの一つであったのだが、結果は皆さんの予想通り、責任を組織に転嫁できる限り、個人は罪悪感を持たないのであった。独立した個人の倫理観や価値観を多様に表現しきれないほど、マスコミもメディア媒体も、少々大きくなりすぎたのかもしれない。


補遺:


最近私が構想している仮説に、日本は組織を高度に発展させることで、個人の責任を組織に転嫁して、個人がある程度動きやすい体制を作ったが、同時に個人の責任が不明瞭になったため、誰も責任を取らないようになった、というものがある。本当に西洋の組織には個人主義が存在しているのか、という反証も必要だが、とりあえず気になるのは、なぜ日本が無責任体質になったかということで、その原因の一つは非論理的な社会ルールが有るのではないかと思っている。ルールが明確ではない中で、個人は自己の責任において決断を下すことは難しい。近代においても、現代においても、日本人はそれこそ「空気を読む」ことを求められて、明確なルールで動くと言うことを怠ってきた。空気を読むことを求めてきたにも理由があるのだろうが、グローバルな場面でことごとく日本人が失敗を犯すのは、このルールの不明確性に基づいた行動にあるのではないだろうか。





2011年7月10日日曜日

精神科医療と薬物療法

興味のない人にはどうでもいい、もしくは耳にも入れたくないという人もいる話であるが、私は精神科(心療内科)の受診者である。断続的に通院していたが、ここ半年ばかり会社の仕事環境の変化もあり、大幅に具合を悪くし、2週間ほど寝っぱなしで通勤できないと言うことが2度ほどあった。そういうわけで、1ヶ月ほど前からまた本格的に通院を始めた。

この精神科治療であるが、受診していない人が端から見ると、実に心許ない治療なのである。次から次へといろんな薬を投与しては変え、投与しては変え……薬の効果を試しているだけじゃないか? 本当に分かって治療しているのか? とそう見えてしまう。しかし、それも仕方がない面が治療にはある。

というのも、精神科の治療は、外科や内科のように、何らかの検査をして、値を見て、薬を投与……という手続きは踏まないのである。精神的な疾患は主に脳内分泌物(たとえばセロトニンやら)の異常から来ると言われているが、これを計測することは不可能だからである(本当に不可能ではないかもしれないが、頭を開いて脳から物質を摂取とはおいそれと出来ないだろう)。

よって、精神科の治療は患者から様子を聴いて、その症状を判断し、それにあった薬を投与し、また様子を聴いて、という繰り返しになる。これは精神科を知らない人には、非常にうさんくさく感じられるだろう。実際、同居人は、もともと精神科に胡散臭い目をしていたこともあり(医療従事者のくせに!)、症状がすぐに良くならないのに薬が増えたりするのを見て、その医者は良くないのでは? 変えるべきでは? などと言い出した。

たしかに、受診している医師は薬物療法を全面的に信頼しすぎている面もあり、以前は胡散臭いと思ったこともあったが、今ではきわめてオーソドックスな診療ではないかと思っている(今後、再度その印象が変わることはあり得るが)。その印象を変えたのは、とあるブログがきっかけだったが、その話は後に回し、胡散臭く思いだした話を先にしよう。

あることをきっかけに抑鬱症状を自覚するようになり、通院するようになってしばらくした頃、とある人からラカン派の精神分析治療ができる医師を紹介してもらったことがある。そこに何回か通院したのだが、処方される薬は極々弱い薬のみ、薬の効果を尋ねるわけでもなく、ややカウンセリングになりがちだった数回の診察の後、その医師が下した診断は、君は鬱じゃないでしょ、ということだった(様に思う。というのも、ハッキリ口にしたわけではなかったから)。つまり、はやりの詐病と思われたのだと思う。

これには、なんとなく自分もそうなのかな?と思ってしまった。というのも、気分が落ち込むのも、気分が落ち込みたいと思うから落ち込んでいるのでは、という気がしなくもなかったからである。自分が明るくなろう、と思えば明るくなるのではないか、外科的に傷の縫合が必要というのではなく、気合いで何とかなってしまうのではないか、と思わせるものが精神医療にはある。

だが、結果的に現在のような有様なので、詐病というのは間違い、あるいは自分の受け取り方に間違いがあったのであろう(ただ、その医師は、もう来てくれるなよ、という態度であったが)。ただ、そのことがあり、薬物のみに頼る方法というのは、本当に正しいのだろうかという疑念が湧いたのである。

だが、ふとしたきっかけで、現役の精神科医師が書いていると思われるブログを見つけ、それを読みふけることで印象が変わった。そのブログに書かれている症例や薬の話は、実に多岐かつ多量である。数ある症例を見ていくうちに、薬が有効に作用するのは漠然ながらも理由付けがあるらしいことと、試行錯誤の上で回復する例が多数有ることから、薬物療法の有効性は、100%ではないにしろ、有ると言わざるを得ないと確信するようになった(現に件のラカン派の医師も薬物を併用している)。

なお自分は、精神分析を否定するわけではないし*1、アメリカで盛んなカウンセリングも一種の精神分析だと思うので、それで治るに越したことはないと思っている。しかし、それで治らないと言う人のために、薬物療法はあっていいはずだ。……と書くと消極的だが*2、いまは再び薬物療法にきちんと向き合ってみようと思っている。これまで、途中でもういいだろうと思って辞めてしまっているのが、結局良くなかったのだろうから。

*1:とはいえど、かなり懐疑的にはなっている。自分はラカンについて書いた本をいくつか読んだが、どれも十分に理解できない。哲学や思想は本来は理解不能なものであるが(別に難解さを強調したいわけでもなく、不可能性の糾弾にこそ意味があると思っているので)、それにしても分からない。と思っていたら、このような記事を見つけた。かなり納得できる内容である。http://psychodoc.eek.jp/abare/analysis2.html
*2:薬物への依存性副作用がかえって症状を悪くすることもあり得るために自分はそう考えている。これは周囲の友人で長く病気を患い回復していない人間が複数いることからであるが、本人の気質にも原因はあるだろう。

クリムゾンのニューアルバム?「The Reconstrukction of Light」

クリムゾンが現行ラインナップでスタジオアルバムを作る予定はないと発言していることは有名だが、クリムゾンの最新スタジオアルバムと言えるかもしれない作品が登場した。それが6月発売されたばかりの「The Reconstrucktion of Light」だ。これは「The Constr...