2011年7月26日火曜日

水戸黄門は終わるべくして終わる

どうせ水戸黄門なんて熱心に見ている人など、こんな場末のブログを見ているはずもないが(もちろん私も見ていない)、しかし同居人が「もう終了だから」ということで、見ているので、つい見てしまった*1。わずか3分ぐらいだが。そして確信した。水戸黄門は終わるべくして終わるのだと。

黄門さまと来たらなんだ。わざとらしいつけ眉毛と顎髭はいいさ。むしろプラスだ。

問題はカツラだ。ヅラっていうだろう。あれは、カツラだとわかるから、カツラらしいとわかるからヅラなんだ。昔の時代劇はみんな、カツラと額の境目がはっきりしていた。ところが、今の黄門さまは、見事に額とカツラがつながっている。まるで本物ですと言わんばかりじゃないか。

カツラの境目の線がどれほど重要か、誰も考えたことなんてあるまい(もちろん自分もだが)。あれは境界線なんかじゃなく、むしろ逆にその両方をつなげるアリバイだった。テレビを見る視聴者に見せる、カツラの境目。「ああ、これは芝居なんだ。今の人がやっている芝居なんだ」。子供だってわかるさ。でも、いや、だからこそ意義があった。

印篭をかざし、それまでの敵方が一斉にひれ伏す。はるか昔の、本当にあったかどうかの出来事のつもりで芝居をやっていても、ヅラの線がその神話性をぶち壊す。「これは現実なんだよ、今と続いた。だってヅラじゃないか」

そして人は気づく。そこに、現代に生きる自分を投影できることを。会社の上司、近所の迷惑な人、理不尽な人々の振る舞い。ヅラで役者であることがばればれでも、その印篭で、悪人どもを手名付けられているかのように思うのだ。

ところが、その現実と芝居をつないでいた線は消えてしまった。いまあるのは、芝居というもう一つの現実。視聴者の人生と交わることのないパラレルの現実。いや現実というより、まさに昔実際にあった話でしかない。いくら雛形あきこが入浴シーンをやっても(やってるかどうか知らん)、ポロリもあったりしても、それは江戸時代の話のようなものだ。我々が見たことのない撮影現場と同じぐらい遠い世界の話。

斯様にして視聴者とのつながりを失った水戸黄門は、終わるべくして終わる以外にないのだ。

*1 正直言えば、これまで興味もなかったのに、ご祝儀で見てやろうなんて態度には幻滅するが、だからと言って別れたりしないから、男女の仲は不可思議だ。



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