2008年5月11日日曜日

『グリーンマイル』



重いテーマを扱う作品は、どんなに取り繕おうとも作者の価値観や善悪観というものが反映されずにはいられないものである。というのは、先週の土曜日にテレビで放映されていた映画『グリーンマイル』である。何の気もなしに、テレビで放送していたものを途中から見たが、おそらくは作者が期待していただろう形では感動を得ることができなかった。


前半のストーリーは隣にいた人から聞いた。なんでも感動的な物語であるらしいのだが、自分には多層的なテーマがうまく消化されず、いささかとまどいを憶える内容だった。


人種差別的な地域で無罪の黒人が故無くして死刑に処せられる、レイシズムがテーマなのか? それともその黒人死刑囚が持つ不思議な癒しの力がテーマなのか? 人間の醜さ罪深さがテーマなのか? おそらくそれらが合わさった多層的なテーマであるのだろうが、単純に涙を流し人間の愚かさがテーマである云々という人は、きっと霊験あらたかな壺を購入する危険性があるような気がしてならない。


なぜならば、冒頭にも書いたとおり、どうしてもこういう映画には宗教的な価値観やら、罪と罰に関する制作者の善悪観が見え隠れしてしまうからである。無実の黒人死刑囚は、その不思議な力で人を救うと同時に、死刑囚虐待を行っているサディスティックな看守を操り、事件の真犯人たる殺人鬼を射殺させる。ここで透けて見えるのは、この不思議な力を持った黒人死刑囚を突き動かす神=脚本家あるいは作者スティーブン・キングの善悪観である。


罪と罰、その意義や定義は常に議論の的であり、本当の立法意志とは関係なくそれを考える人それぞれの中にあるものとも言える。刑の執行は法で決まった正義を実行すること自体にある(=法の権威を維持するため)、あるいは、被害者の処罰感情を充足し理不尽な行為を刑によって処罰するため(=応報としての処罰)、刑の執行を見せしめることで罪に対する処罰の大きさを知らしめ、犯行を押さえる(=犯罪への抑止力としての処罰)などなど、いくらでも論は出てくるし、実際のところ法哲学という学問はこのようなことをメインフィールドとしている。


さて、我らが癒しの力を持つ黒人死刑囚(=神の使わしたもの、と看守達が信じる男)が、私刑的に真犯人を殺害させるというのは、何を意味するのか。彼は死に値する罪人だったかも知れない、しかし、それは何者の判断によるべきだったのか。それを黒人死刑囚による行為を当然のものと見るならば、それは非常に宗教的な(=権威的な)もののように思えてくる。極言するなれば、それは感情によっての裁きとすら言えるだろう。


だがこの殺人鬼はともかくとして、操られたサディスティックな看守はどうだろう。精神を崩壊させられ、自分をも認識できない精神障害者として精神病院に幽閉されてしまうほどの罪だったのだろうか(前半部分を見ていないのでハッキリとは分からないのだが……)。このように2人の男を、死に至らしめる(肉体が死んだのは1人だが、もう1人は精神が死んだ)というのは、法の裁きよりも宗教的な(情緒的な)裁きが優先すると言うことだろうか。


ここに、いささかアメリカという社会の精神性が見えてくるような気がしてくる。この映画は湾岸戦争後、9/11前であるが、すでに情緒だけで他国に攻め込めるアメリカの精神的萌芽が見て取れるかのようだ。そんな引っかかりがどうしても素直に感動できない要因になってしまった。そして素直に、人間の世は醜い争いだと思う人は、現代のアメリカと同じ情緒の言語を話す人々ではと思い、その言葉に素直に頷けないのだ。





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