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2011年7月26日火曜日

きみはアドルフ・ヴェルフリを知っているか?



アドルフ・ヴェルフリ。1864年、スイスにて出生。1930年没。職業? 狂人とでも言えばいいのか? 画家かもしれない。詩人かもしれない。作曲家かもしれない。でも、やはり狂人と呼ぶのが一番しっくりくるかもしれない。え? なぜそんなやつの話をするのかって? 

それは、半生を過ごした精神病院で彼が生み出した、数々の「作品」がとんでもなく面白いからだ。作品にカッコをつけたのには意味がある。それは、われわれが芸術作品としてみているそれは、彼の誇大妄想が作り上げた、空想の世界だからだ。空想と呼んだのも我々の一方的な見方にすぎなくて、彼にとってはそれが現実なのかもしれない。うつし世は夢、夜の夢こそまこと。

折りよく発売されたCDの紹介文を引用してみよう(そんな妄想につきあった音楽家がいるのだ)。
1916年には誇大妄想も極まり、「聖アドルフ巨大王国」を建設、自らを聖アドルフ2世と命名、その王国を祝福してポルカや行進曲などの作曲まで始めます。病院では、自分が作曲した自らを称える歌をラッパで吹き鳴らしつつ描くヴェルフリの姿が見られたという笑えない話が残されています。(引用元:HMV) 
斯様な精神病者が作る「作品」のことを、アール・ブリュット(Art Brut)という。フランス語で、「生のままの芸術」とでも訳せばよいか。最初に着目した人間は、ジャン・デビュッフェ(Jean Dubuffet)だったと記憶している。 学生の時、その「作品」のいくつかを見たことがあるが、いずれも不気味なオーラを湛えた、何とも言い難い強烈なインパクトがあった。日本でも有名になったヘンリー・ダーガーを想起すれば、おそらくそのインパクトの一端を理解してもらえるのではないか。精神分析的に解釈するならば、抑圧された狂人たちの欲望が彼らの妄想世界に横溢しているのである。おそらくは彼自身もそれを自覚せぬまま。

アール・ブリュットの「作品」の多くには、執拗なモチーフの連続が現れる。草間彌生を想起してみよう。あの水玉ともなんともつかないモチーフは、女陰に見えてこないか? ある事象をある物語で置き換えることを精神分析と呼ぶなら、「作品」の精神分析的解釈はいかにも陳腐に思えるが、しかしそれでもアール・ブリュット特有の、あの、見てはならない人間の陰の部分を見てしまったような感覚をうまく説明しきれることはないだろう。そう、それはきっと自分たちの陰でもあるのだ。

<追記1>
私はかのヴォイニッチ手稿も、精神病者の書いたものではないかと思っている。現実には存在しない植物、法則性はあるようで解釈できない文字など、共通点は多い。

<追記2>
下記のリンクも非常に面白い。言語創作に関する逸話である。
http://psychodoc.eek.jp/abare/neologism.html

<追記3>
最近、このページへのアクセスが多いので、なぜだろうと思って調べたら、アドルフ・ヴェルフリ展をやっているという。90年代にはダーガーしか知られておらず、アール・ブリュットではなくアウトサイダーアートだったのが、今では随分と書籍が充実しているようだ。90年代に1度だけ行われたアール・ブリュット展図録とポンピドゥセンターで行われた展覧会図録ぐらいしか本がなかった昔からは考えられない話である。


2011年7月10日日曜日

精神科医療と薬物療法

興味のない人にはどうでもいい、もしくは耳にも入れたくないという人もいる話であるが、私は精神科(心療内科)の受診者である。断続的に通院していたが、ここ半年ばかり会社の仕事環境の変化もあり、大幅に具合を悪くし、2週間ほど寝っぱなしで通勤できないと言うことが2度ほどあった。そういうわけで、1ヶ月ほど前からまた本格的に通院を始めた。

この精神科治療であるが、受診していない人が端から見ると、実に心許ない治療なのである。次から次へといろんな薬を投与しては変え、投与しては変え……薬の効果を試しているだけじゃないか? 本当に分かって治療しているのか? とそう見えてしまう。しかし、それも仕方がない面が治療にはある。

というのも、精神科の治療は、外科や内科のように、何らかの検査をして、値を見て、薬を投与……という手続きは踏まないのである。精神的な疾患は主に脳内分泌物(たとえばセロトニンやら)の異常から来ると言われているが、これを計測することは不可能だからである(本当に不可能ではないかもしれないが、頭を開いて脳から物質を摂取とはおいそれと出来ないだろう)。

よって、精神科の治療は患者から様子を聴いて、その症状を判断し、それにあった薬を投与し、また様子を聴いて、という繰り返しになる。これは精神科を知らない人には、非常にうさんくさく感じられるだろう。実際、同居人は、もともと精神科に胡散臭い目をしていたこともあり(医療従事者のくせに!)、症状がすぐに良くならないのに薬が増えたりするのを見て、その医者は良くないのでは? 変えるべきでは? などと言い出した。

たしかに、受診している医師は薬物療法を全面的に信頼しすぎている面もあり、以前は胡散臭いと思ったこともあったが、今ではきわめてオーソドックスな診療ではないかと思っている(今後、再度その印象が変わることはあり得るが)。その印象を変えたのは、とあるブログがきっかけだったが、その話は後に回し、胡散臭く思いだした話を先にしよう。

あることをきっかけに抑鬱症状を自覚するようになり、通院するようになってしばらくした頃、とある人からラカン派の精神分析治療ができる医師を紹介してもらったことがある。そこに何回か通院したのだが、処方される薬は極々弱い薬のみ、薬の効果を尋ねるわけでもなく、ややカウンセリングになりがちだった数回の診察の後、その医師が下した診断は、君は鬱じゃないでしょ、ということだった(様に思う。というのも、ハッキリ口にしたわけではなかったから)。つまり、はやりの詐病と思われたのだと思う。

これには、なんとなく自分もそうなのかな?と思ってしまった。というのも、気分が落ち込むのも、気分が落ち込みたいと思うから落ち込んでいるのでは、という気がしなくもなかったからである。自分が明るくなろう、と思えば明るくなるのではないか、外科的に傷の縫合が必要というのではなく、気合いで何とかなってしまうのではないか、と思わせるものが精神医療にはある。

だが、結果的に現在のような有様なので、詐病というのは間違い、あるいは自分の受け取り方に間違いがあったのであろう(ただ、その医師は、もう来てくれるなよ、という態度であったが)。ただ、そのことがあり、薬物のみに頼る方法というのは、本当に正しいのだろうかという疑念が湧いたのである。

だが、ふとしたきっかけで、現役の精神科医師が書いていると思われるブログを見つけ、それを読みふけることで印象が変わった。そのブログに書かれている症例や薬の話は、実に多岐かつ多量である。数ある症例を見ていくうちに、薬が有効に作用するのは漠然ながらも理由付けがあるらしいことと、試行錯誤の上で回復する例が多数有ることから、薬物療法の有効性は、100%ではないにしろ、有ると言わざるを得ないと確信するようになった(現に件のラカン派の医師も薬物を併用している)。

なお自分は、精神分析を否定するわけではないし*1、アメリカで盛んなカウンセリングも一種の精神分析だと思うので、それで治るに越したことはないと思っている。しかし、それで治らないと言う人のために、薬物療法はあっていいはずだ。……と書くと消極的だが*2、いまは再び薬物療法にきちんと向き合ってみようと思っている。これまで、途中でもういいだろうと思って辞めてしまっているのが、結局良くなかったのだろうから。

*1:とはいえど、かなり懐疑的にはなっている。自分はラカンについて書いた本をいくつか読んだが、どれも十分に理解できない。哲学や思想は本来は理解不能なものであるが(別に難解さを強調したいわけでもなく、不可能性の糾弾にこそ意味があると思っているので)、それにしても分からない。と思っていたら、このような記事を見つけた。かなり納得できる内容である。http://psychodoc.eek.jp/abare/analysis2.html
*2:薬物への依存性副作用がかえって症状を悪くすることもあり得るために自分はそう考えている。これは周囲の友人で長く病気を患い回復していない人間が複数いることからであるが、本人の気質にも原因はあるだろう。

クリムゾンのニューアルバム?「The Reconstrukction of Light」

クリムゾンが現行ラインナップでスタジオアルバムを作る予定はないと発言していることは有名だが、クリムゾンの最新スタジオアルバムと言えるかもしれない作品が登場した。それが6月発売されたばかりの「The Reconstrucktion of Light」だ。これは「The Constr...