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2017年7月31日月曜日

ピンク・フロイド書籍「ピンク・フロイド全記録(グレン・ポブィ)」が発売



活動は終わったとされる、ピンク・フロイド。その軌跡を収めた本が出版される。著者はグラン・ポブィ。完全限定2000部とある。監修はストレンジ・デイズ。

発売は2017年8月31日とのこと。価格は5940円、440ページ。詳細がアマゾンに出ている。

【完全限定2000部】

デビュー50周年記念

ロンドンV&Aでピンク・フロイド大回顧展開催中! 
ロジャー・ウォーターズ25 年振り新作発表! 


 プログレッシブ・ロックの先駆者であるピンク・フロイド全キャリアを網羅した究極のビジュアル・データ・ブック、本邦初の貴重な未発表写真やグッズ、コンサー ト、リハーサル、レコーディングなどの詳細なデータ、インタビュー、全公演セットリストなどピンク・フロイドのすべてをこの一冊にコンパイル。
 さらに伝説のアビーロード・レコーディング・セッションに関しての最新資料も追加した圧巻のアーカイブ集。ピンク・フロイドの権威として名高い、英音楽評論家・グレン・ポヴィによる緻密な取材の集大成でもある。
 最も革新的なロックグループの胎動期から現在に至るまでの偉大な奇跡を記録した唯一無比のピンク・フロイド一大絵巻。ピンク・フロイドファン、ロック・ファン待望の一冊、遂に完成。

63~67年 黎明期そして『夜明けの口笛吹き』シドバレットの登場
68~71年 サイケデリックからプログレッシブロックへ『原子心母』の時代
72~76年『狂気』『炎』飛翔伝説~ゆるぎなきスターダムへ
77~85年『アニマルズ』『ザ・ウォール』~ロジャー・ウォーターズの時代
85~04年『ファイナルカット』『鬱』『対』~デイヴ・ギルモアの時代
05~15年『光』『エンドレスリバー』~再会そして終焉

ディスコグラフィー全作品・詳細解説
メンバー・ソロ・キャリア全掲載・解説

<著者プロフィール>
グレン・ポヴィ
ピンク・フロイドのファンジン「ブレイン・ダメージ」の創設者で1985 ~ 93 年までの本誌の編集長を務める。著 書には『Pink Floyd in Flesh:The Complete Performannce History』(St.Martin Griffin 刊) 『Echoes』(Chicago Review Press 刊)があり、ピンクフロイド史研究家として世界的な権威。現在もMojo、Record Collector、Classic Rock などの主要音楽誌へ寄稿。またアーティスト・マネジメントやツアー・プロダクションなども手掛け、音楽産業でも活躍中。現在・英ハートフォード州在住。
ピンク・フロイドは終わってしまった。各人のソロに互いにゲスト参加することはあっても、もはや復活はないだろう。そういうわけで、色々と過去のお蔵入り音源などを集める作業が進められている様子。回顧として、活動の全貌を俯瞰するのは意味があることかもしれない。昨今の出版不況を踏まえて2000部という、一時は商売が成り立つのと疑問に思う部数ももはや当たり前になってしまったようだ。


2011年7月26日火曜日

きみはアドルフ・ヴェルフリを知っているか?



アドルフ・ヴェルフリ。1864年、スイスにて出生。1930年没。職業? 狂人とでも言えばいいのか? 画家かもしれない。詩人かもしれない。作曲家かもしれない。でも、やはり狂人と呼ぶのが一番しっくりくるかもしれない。え? なぜそんなやつの話をするのかって? 

それは、半生を過ごした精神病院で彼が生み出した、数々の「作品」がとんでもなく面白いからだ。作品にカッコをつけたのには意味がある。それは、われわれが芸術作品としてみているそれは、彼の誇大妄想が作り上げた、空想の世界だからだ。空想と呼んだのも我々の一方的な見方にすぎなくて、彼にとってはそれが現実なのかもしれない。うつし世は夢、夜の夢こそまこと。

折りよく発売されたCDの紹介文を引用してみよう(そんな妄想につきあった音楽家がいるのだ)。
1916年には誇大妄想も極まり、「聖アドルフ巨大王国」を建設、自らを聖アドルフ2世と命名、その王国を祝福してポルカや行進曲などの作曲まで始めます。病院では、自分が作曲した自らを称える歌をラッパで吹き鳴らしつつ描くヴェルフリの姿が見られたという笑えない話が残されています。(引用元:HMV) 
斯様な精神病者が作る「作品」のことを、アール・ブリュット(Art Brut)という。フランス語で、「生のままの芸術」とでも訳せばよいか。最初に着目した人間は、ジャン・デビュッフェ(Jean Dubuffet)だったと記憶している。 学生の時、その「作品」のいくつかを見たことがあるが、いずれも不気味なオーラを湛えた、何とも言い難い強烈なインパクトがあった。日本でも有名になったヘンリー・ダーガーを想起すれば、おそらくそのインパクトの一端を理解してもらえるのではないか。精神分析的に解釈するならば、抑圧された狂人たちの欲望が彼らの妄想世界に横溢しているのである。おそらくは彼自身もそれを自覚せぬまま。

アール・ブリュットの「作品」の多くには、執拗なモチーフの連続が現れる。草間彌生を想起してみよう。あの水玉ともなんともつかないモチーフは、女陰に見えてこないか? ある事象をある物語で置き換えることを精神分析と呼ぶなら、「作品」の精神分析的解釈はいかにも陳腐に思えるが、しかしそれでもアール・ブリュット特有の、あの、見てはならない人間の陰の部分を見てしまったような感覚をうまく説明しきれることはないだろう。そう、それはきっと自分たちの陰でもあるのだ。

<追記1>
私はかのヴォイニッチ手稿も、精神病者の書いたものではないかと思っている。現実には存在しない植物、法則性はあるようで解釈できない文字など、共通点は多い。

<追記2>
下記のリンクも非常に面白い。言語創作に関する逸話である。
http://psychodoc.eek.jp/abare/neologism.html

<追記3>
最近、このページへのアクセスが多いので、なぜだろうと思って調べたら、アドルフ・ヴェルフリ展をやっているという。90年代にはダーガーしか知られておらず、アール・ブリュットではなくアウトサイダーアートだったのが、今では随分と書籍が充実しているようだ。90年代に1度だけ行われたアール・ブリュット展図録とポンピドゥセンターで行われた展覧会図録ぐらいしか本がなかった昔からは考えられない話である。


2011年7月25日月曜日

大里俊晴 - 『ガセネタの荒野』




一言で言えば、唐突な再版だ。

著者・大里俊晴は、2009年11月17日に逝去した音楽学者である。本著は、彼の青春時代に活動していたバンド「ガセネタ」*1について綴ったもので、もともとは91年に洋泉社にて刊行されていたもので、著者の生前唯一の単著だ。内容は、浜野純・山崎春美という2人の天才に大里が圧倒され、加速し続けあらゆるものを削ぎ落とし続けた濃密な時間についての記録である。

私自身のプロフィールとも重なるが、大里氏は私の兄弟子であり、先生でもあった。かつて、知人から斯様な本を書いていることは知っていたが、あとがきに「古本屋のワゴンで10円で並んでいることを願う」*2というようなことを書いていらしいと聞いて、常々探していた。それが、渋谷タワレコに並んでいたのである。しかも新刊。まったく唐突といったらありゃしない。帰りの電車で恐ろしい勢いで読みふけり、最寄り駅のベンチに座ったまま一気に読破した。

感想を一言で言うなら、読まなけりゃ良かった、である。

内容がつまらないわけではない。破滅するしかなかった者たちの記録のようでもあり、そこから逃げ出した大里氏の後悔のようでもある。ガセネタの音楽を少しばかり聴いたことがあるが、そのあまりにも鋭い音は、本著での大里氏の切実な心情吐露*3とよく似た、刹那的な音だった。自殺的といおうか、あるいはチキンランのような、とでも言おうか。このようなものを誰が書ける? ここまで赤裸々な心情吐露をあけっぴろげにすることが誰にできる?

しかしそれだけに、なぜ今?という唐突感がぬぐえない。

ガセネタの音源が10枚組みBOXで発売されるからか? 死後、関係者によって大里の業績を世に残すためだったのか? そのいずれでもあり、いずれでもないのかもしれない。

だが、自分は山崎春美の題字による装丁など見たくなかった。死して2人は和解したとでも言うのか? 追悼文集*4の山崎の文章は、ほかの誰よりも美しかった。それはこう結ばれている。「ほんとうは二人で、ぼくと大里との二人で、見知った見知らぬ人たち、少女たち、女の子たちを、片っ端から犯すしかなかったんだ。ぜったい。それ以外に未来はなかった。(略)そしたら、ぼくもきみも浜野もみんな一緒にいられたのになあ。」 やっぱり破滅以外に道はなかった。だから、こんな幻滅はない。

本当は、「出会うべき者はいずれ会う」のであれば、それは唐突でもないのかもしれない。けれど、やっぱりそれは古本屋のワゴンで出会いたかった。1400円もの金を出して、彼らの過ごしたアングラの空気を追体験した気になるなんて、どれほど陳腐なことか。そんな疑念が払拭できずにいるし、一方でどんどん発行してもう歴史にしてしまえよ、とも思っている。

追悼文集を我が家のトイレにずっと置き続けているのが、せめてもの自分の弔い方だ。

<追記1>
7/26のDommuneにてガセネタ特集があり、山崎晴美が出演して、ガセネタの曲を歌ったという。山崎氏のパーソナリティは、下の脚注3と全く正反対で、自分がどのように見られるかなどに無頓着なのではないだろうか。

<追記2>
結局、ガセネタBOXを注文してしまった。さらに、ディスクユニオンの張り紙で今後「タコBOX」「大里俊晴BOX」も出るらしいことを知った。本文のように書いたが、もういっそうのこと、伝説から引きずり下ろしてしまえという気分に変わった。

*1 バンド名は頻繁に変わったという。「こたつに吠えろ」「て」など。
*2 あとがきを読んでみたが、そのような記述はなかった。また、とある女性に本書を捧げる、というようなことも書いてあったと聞いたが、その記述もない。再販にあたり、遺稿を元にしたとあったので、削られたのかもしれない。その理由は自分には知るべくもない。
*3 大里氏を語るときに、彼の自己滅却的な性格(シャイとも書かれている)が多く口にされるが、私の評価は逆だ。大里氏は根っからのロマンティストだ。自意識が過剰であるからこそ、自分を消し去ろうとするのだ。自分に無頓着なら、さらけ出された自分にどんな評価を下されようとも、まったく意に介さないはずである。
*4 一部書店やネット経由などで購入できると思う。こちらは題字がジム・オルーク。そんな風にサブカル著名人を引っ張り出してくる感覚には、どうもなじめない。

2010年5月16日日曜日

いまさら『電子書籍の衝撃』について書いてみる


もう発売からだいぶ経っているのに、今更ブログに書くのはいささか気が引けるが、『電子書籍の衝撃』について。

この本に書かれている内容は、大筋では同意である。電子書籍が普及するために必要な3つの要素については異論がない。少し違う意見があるとすれば、佐々木氏はソーシャルメディアの価値を高く評価しているようだが、自分はそうは思わないと言うところか。

はやり廃りの多いネットサービスにあって、著者が自分を表現するソーシャルメディアが長続きするかは、自分には疑問だ。メディアが違えばそこで必要とされる自己プレゼン能力は微妙に異なると思うし、その差違を著者たちは本当にうまく使いこなせるか、という問題もある。佐々木氏自身も「ソーシャルデバイド」という言葉を書いている通り、ハードルは低くはないと思う。それに、本来的には著者の活動や作品の質とはあまり関係ない話ではないか。

ただ、もし佐々木氏が想像するようなソーシャルデバイドが存在する未来がやってくるなら、プロモーションを代行する人が介在する余地も以前として残り続ける事になるような気がする。

多少の異論はあっても、大筋では同意させられたのだが……以下は些末な指摘として受け止められる可能性も多いことを承知で書くが、編集としてはがっかりさせられる点が多かった。著者の佐々木氏が悪いと言うことではない。編集側が対処すべき問題なのだ。箇条書きにして書くと、

1)事実確認の問題
2)引用の問題
3)用語や表記の問題、日本語の問題

が存在する。これらの点はさらっと読み流しても感じられるのだから、編集も本当は気になっていたはずではないか? 文芸書ではないのだから、これらの点は編集が著者に確認すべきではないだろうか。それをしていないことが編集を軽んじているように感じられて、悲しくなった。電子書籍時代にはこういう本が増えて行くのだろうか……。以下、具体的に見て行こう。


1)事実確認の問題

この本に書かれているいくつかの事項は、私には事実かどうか疑わしく感じられる。また、説明が不足しているために、疑問を捨て去ることが出来ない。

たとえば、iTunes Music Storeの成功がメジャーレーベルの凋落を招いたとあるが、これを裏付ける証拠は本文中には出てこない。もちろん、話の本筋から見れば傍流である。しかし、大多数の合意を形成できるほど知られた事実でもないなら、その証拠をきちんと提示するのが筋ではないか。特に、その事実を元にして出版界の未来を語るというのならば。

同様の問題が電子書籍コンソーシアムの失敗について書いた部分にもある。どの出版社も著者に電子化の許諾を取っていなかった、ということは分かるが、許諾交渉をコンソーシアムが薦めようとしても、各出版社で事情が違いすぎて頓挫した、と言うあたりが分からない。どういう事情があって、統一的にできなかったのか、具体的な例がなければ、客観的に不可能だったということを読む側としては納得できない。端折られたように感じてしまった部分である。

また、アマゾンは電子ブックの売り上げでは損をして、キンドルで売上を上げているとあるが、本当にそうだろうか? アマゾンはキンドルの売上でも損をしているように感じる。3G通信代などがそうだ。もし本当に損をしているというのなら、事業モデルとして端末の売上で儲けるように見えるが、そうなのだろうか?? 何らかの客観的なデータが欲しい。


2)引用の問題

数々の引用をつなぎ合わせて、1つのストーリーを作っていく様が、この本を読んでいてワクワクさせられる点であるのだが、牽強付会な引用が散見されるように自分には感じられた。

たとえば、原雅明というジャズ評論家の文章を引用して、コンテンツの「アンビエント」化の意味を物語っているのだが、原氏の言葉「もっと大きなサウンド」の引用の前後が切り取られてしまい、意味が分からなくなってしまっている。結局このもっと大きなサウンドとは何だったのだろう? そしてそれは本当に佐々木氏のいう「アンビエント」を補強するものだったのだろうか。ついでに言うと、アンビエントというのも、あまりにも定義が曖昧すぎて、よく分からないのである。クラウドと何が違うのか?

そのほか、ブログなどの引用が多いが、まるでその意見が大多数であるかのように引用するが、ほんとうにそうかー?と言うのも多い。エディットミュージックマニアの話もそうだが、仲間内の符牒だけで話すマニアは昔からいたし、今も昔も少数派だ。あと、ブログのエントリーがいつのものかというのもきちんと書いて欲しい。


3)用語や表記の問題、日本語の問題

そのほか、妙な表現や用語・表記の問題もある。些末なので読む人にはどうでもいいかもしれないが、編集者的にはとても気になる。

たとえば、iPadの説明をするのに「伝説のデバイス」と形容しているのだが、発売していないのに伝説とはなんだろうか。伝説とは起こった出来事が後の世に語られるようになるという言葉であるからして、おかしく感じられないだろうか? 発売される前から伝説になることが予想された、といった言い方なら分かるのだが。

エコシステムという言葉も気になる。生態系と言いたいならば英語にしたらエコロジーではないか。そもそも、この言葉も比喩なのだから、こういう造語っぽい言葉を使う意味はあるのだろうか。

「『ボクノタメニナイテクレ』というブログは、こういうエントリーを書いている。」と文中にあるが、ブログがエントリーを書くのではなく、作者がエントリーを書くのだから、これは日本語としておかしい。普通の編集者ならこれを校正するはずなのだが……。

統一表記も妙だ。「ロキシー・ミュージック」なのに「ピンクフロイド」「キングクリムゾン」。中黒はどういう規則になっているのだろう?

ポップパンクグループ、と何かのバンドの紹介にあったが、ポップパンクというジャンルを初めて聞いた。エディットミュージックも同様。また、まつきあゆむ紹介のところにある、「エッジの効いたサウンド」というのは何を意味しているのか? なにかのエッジが効いているというのは、どういう意味か? 全体的に、佐々木氏は音楽に対して使っている形容詞・用語が微妙におかしい。自分は音楽雑誌の編集をしていたのでよく分かるが、こういう形容をミュージシャンは露骨にいやがるので、普通は使わないものである。

以上、些末だったのだが、異論を語るにも、同意を語るにも、読んで損はないと思う。ぜひ、佐野眞一あたりにも同様の書籍を書いてもらいたいものだ(かつてはデスクトップの概念すら理解できなかったと言うが……)。

2010年3月28日日曜日

電子書籍時代の印税契約



電子書籍のビジネスモデルについてエントリーを書こうと思ったら、すでにきちんとまとめられたエントリーがあったので、それを紹介しつつ、内容を補足したい。


http://satoshi.blogs.com/life/2010/03/books.html


Life is beautiful―iPadのインパクト:電子書籍のビジネスモデル


記事に関して、いくつかコメントすると、この記事にて引用されていた印刷の価格構成だが、「製版・写植代:12%」というのは少し古い情報だと思われる。DTPになって写植がいらなくなったからだ。あと、記事を読んで取り次ぎ不要を強調しすぎな気がした。というのも、そもそも取次が介在する余地がない、というよりAmazonやらAppleが取次兼書店となるからであり、そこに取次を敵視する表現を使う意義はないと思うからだ。


さて、私が補足したい内容だが、それは出版社と著者との関係である。上記ブログのエントリー末尾に「電子出版の時代に出版社が生き残るためには」として3つの項目が書かれているが、重要なのは支払いに関する部分だ。


紙の本では、これまで出版社が著者に払ってきた印税は、刷り部数×定価の10%である。これが、電子書籍になったらどうなるか。電子書籍には刷り部数というのが存在しない以上、売れた部数×定価のn%を一定期間ごとに支払いすることになるだろう。しかし、文筆業を経験した者であれば、これはちょっと……と思うのではないか。


著者にとって見れば、本を書くのはコストを先に負担している状態なので、できればすぐにマネタイズしたいと思うのが自然である。とすると、出版社と著者の契約形態として、あらかじめ想定部数分の印税を先渡しして、その部数を超えたあたりから部数あたりの印税を払う、というやり方もあり得るはずだ。最近は紙の本でも、刷りに対して極端に売れない場合があるので、保証部数(最低何部は売れるだろうという設定)で印税を払うケースもあるが、それに近い考え方だろう。電子書籍時代の出版社は、著者の収入を安定化するという機能も担うことになるのではないか。


印税を先渡しするリスクは当然あるわけで、その分、印税を低く設定したいという交渉もありえるはずだ。電子書籍時代には、これまでのように業界慣習の10%という横並びの価格設定は通用しない。部数を出せる著者は印税のパーセンテージが高くなり、知名度のない著者は低くなるということもあるだろう。同様に著者の側から見たら、あそこの出版社はパーセンテージが低いとか、向こうは高いとか、逆の評価もありえる。いずれにせよ、電子書籍が本格的にスタートすれば、しばらくは出版社と著者の双方で印税契約の模索が続くことになるだろう。





2010年3月8日月曜日

アゴラブックスはイノベーションか?



先週、経済学者の池田信夫氏が電子書籍ベンチャーを手がける会社「アゴラブックス」を立ち上げたことが、ネットで話題になった。以前から池田氏は、日本にも電子書籍の波が押し寄せていて、出版界の産業構造が変わろうとしているという主旨のことをブログ上で書いていたので、この展開は別に驚くに当たらない。


だが、「いったいどういうビジネスモデルなんだろう」ということが私には大きな疑問だった。池田氏は既刊本を電子書籍化する「著作権エージェントは出てこないだろうか」とブログで書いていたので、それがビジネスモデルと思ったのだが、「どこの馬の骨ともしれないベンチャーと組むよりも、自社でやってしまった方が利益率が良い」と出版社は考えるのが自然ではないだろうかと思っていた。そう思っていたら、J-castから興味深いニュースが出てきた。


http://www.j-cast.com/2010/03/07061675.html


まだ正式に事業展開を明らかにしたわけではないが、この記事をまっすぐに解釈するなら、彼らのビジネスモデルは「第3の電子書籍売り場を作る」ことだったわけだ。これは、既存出版社が抱える「アマゾンやアップルに流通を握られる」とか、「著者が出版社を通さずに直に本を売りだすのでは」という危機感に対応するものだろう。出版社の大同団結がうまくいかなそうだと言うこともあり、第三者の立場から冷静に状況を分析でき、且つ、技術的なノウハウを持っている、あるいはノウハウを持っている人たちを知っているアゴラブックスが入っていける余地がここにあったわけだ。


でも、これこそ池田先生が言う、ガラパゴス化のような気がする。既存の出版社の産業構造を維持させる方向に力を傾けているように、私には思えるからだ。出版界の流通構造を踏襲しない(=取り次ぎを通さない)ということは大きな意義だが、既存の本屋をそのままネット上に置き換えることを目指しているように見えて、そこにイノベーションは感じられない。


既刊本を本当に皆は電子書籍で読みたいのだろうか。たしかに、これはKindleで読めたら便利だよなという本は存在する。けれど、本当に電子書籍化の意義があるのは、電子書籍ならではの本なのではないだろうか。これまで紙では出てこなかったような本が電子書籍で出てくる、そしてそれが新しい需要を喚起する、それこそがイノベーションというものではないだろうか。


たとえばePub形式はスクリプトを仕込めないなど、インタラクティブな要素はあまり考慮していないので、フォーマット的には少しも新しくない。電子書籍はインターネットほどに新しくないのだ。よって、月並みだが、編集の力こそが著者と売り場の間に出版社が入りうる余地だと思うし、それは電子書籍時代になっても変わらないものじゃないかと思っている。編集が必要とされなくなれば、出版社は滅びるだけしかないだろう。


とはいえ、池田先生もまだおもしろいことを仕込んでいるかもしれない。今月の25日にアゴラブックスのビジネスモデルが発表されるという。月末にiPadも発売になると言うし、この3月は出版界にとって激動の1ヶ月になるのかもしれない。


P.S.ちなみに、アゴラブックスが提携を進めているという出版社は、魔法のiらんどを子会社化したアスキー・メディアワークスだと予想しているが、どうだろうか。池田先生もWebアスキーに連載を持ってるしね。


追記・5日にiPadは四月と発表が出ていたんですね。気がつきませんでした。





2010年2月10日水曜日

マスコミが騒ぐほど電子書籍の時代はすぐには来ない



今週頭、Kindle2がウチにやってきた。もともと「電子書籍なんてまだまだだろ」と思っていたのだが、アスキー.jpの記事に興味を持って、つい購入してしまったのだ。ネットにもつながる通話料無料のモバイルデバイス、というのが、非常に魅力的だったし、ちょうど電車の中などで外国書籍が読みたいと思っていたので、3万円以下なら高くはないと思った次第。さて、実際に使ってみた印象なのだが、これは確かに良くできた端末だが、電子書籍の時代はまだまだ来ないなという思いを強くすることになった。


まずKindleの長所・短所を挙げてみよう。


<長所>


  • 3G端末なので直に電子書籍が買える

  • E-inkで見やすい

  • バッテリー持続時間が長い

  • PCより軽い

  • Webも見られる

  • <短所>


  • 日本語が使えない(ハックで日本語表示はできても、入力はまだできない)

  • E-inkなので画面遷移が遅い

  • 文庫より重い

  • Webのようにキーワードで検索とかしにくい

  • 意外にKindle Storeの品揃えが少ない(もちろん日本語無し)

  • 上記のような端末の長短はすでにWebのあちこちで語られていることだと思う。だが、Kindleを端末本体だけで見ていてもユーザー体験や市場への影響度を理解することはできない。書籍の購入方法や、出版社にとっての著作権保護など、ビジネスモデルの観点から見て初めて解き明かせると思うのだ。Kindleというビジネスモデルの特徴は何か。一番大きな特徴は、文庫や単行本の代替品という思想で作られた製品だと言うことだと私は思っている。


    書籍というパッケージをそのまま電子的に置き換えた場合、そのビューアーというのがKindleの位置づけである。基本的に書籍を頭から終わりに向かって読み進めることを前提としてみれば良いデバイスであり、ユーザー体験も悪くない。しかし、たとえば音声や動画などマルチメディア化したユーザー体験を求めたり、文中の語句をネットで調べたり、好きなところだけ飛ばして読んだり、ということを考えたとき、現状のKindleはまだまだという印象を受ける。E-inkの仕様から、カラー化も難しいらしい。となると、ますます文庫の代替と言うことになる。


    逆にiPadはこういう問題点に対応した製品だろう。見つけた語句での検索やとばし読みなどもできる。音声や動画も問題ない。雑誌のような媒体を再現するにはうってつけだ。しかし、それなら何で電子書籍(ePub)なのか、Webでいいではないかとツッコミたくなる。WebならPCでもiPadでもよその端末でも読める。電子書籍というパッケージにするのは、ユーザーやメーカーの先入観と幻想、そしてDRMの問題でしかないのではないかと思ってしまう。そういう意味から、iPadは帯に短したすきに長しの隙間商品くさいなと思ってる。


    昨年末に友人とした会話を思い出す。アップルが電子書籍デバイスを出すと彼は言い張り、そんなもん作るのかという私と、ちょっとした言い合いになった。彼はiPadへの期待からか「電子書籍が流行ってる」と言いだすので、ついムキになって「どこで流行ってるんだ?そんな事実はないだろ」と言い返したのだ。ところが、今年に来て電子書籍元年みたいに言われ始めたので、これは自分の見込み違いだったと思っていたのだが、実際にはやはり私が思った通り、アメリカでもそれほど流行っていないようだ。たとえばKindle Storeを見てみると、ランキングの上位は名作系小説の詰め合わせばかりで、話題のベストセラーは乏しい。フランス語書籍はともかく、英語書籍も思ったほどはバリエーションが無い。点数はあっても同じ作品の別エディションばかりだ。おそらくは著作権フリーの書籍を売っているのだろう。商品が少ないのは、需要がない、つまりまだユーザーが少ないからだ。アマゾンも持ち出しでがんばっているようだが、まだそこまで市場が成熟していないようで、だからこそアップルも参入しようと思ったのだろう。


    たとえ日本でも電子書籍が販売されだしたとしても、結局、マスコミが言うほどiPadもKindleも日本の出版界へのインパクトは強くないと思う。iPadとKindleで日本の出版界が焦土になるなんて言ってる人がWebには結構いるけれど、電子書籍は常に「それならWebのほうがいいじゃん」というツッコミどころがつきまとっている。Webのほうが、検索もとばし読みも加工もしやすく利便性が高いからだ。パッケージであることを止めない限り、電子書籍は常に紙の書籍の代替でしかないが、パッケージを止めたらWebに近づくだけなのだ。単なる代替であるならば、今ある書籍から移行したいと思わせるだけのメリットを示さないと、わざわざお金を出して電子書籍端末を購入しようと思うのは、私のような電子書籍の未来に興味がある人か、ガジェット好きの人間にとどまるだろう。





    2008年6月19日木曜日

    2つの80年代の証言



    一言にバブルと片付けられることが多い80年代。とはいえ、子供心にもあの頃は世の中全体が喧噪に包まれていたような気がしている。とはいえども、この2つの80年代を過ごした体験記は、そんなステレオタイプな80年代観とはあまりにもかけ離れている。


    1つは、我が師匠、南博氏の『白鍵と黒鍵の間に~ピアニスト・エレジー銀座編~』である。ジャズにかぶれてしまったがために音楽高校を放り出された青年が、夜の銀座でピアノを弾き、やがてアメリカへ渡るまでを描いた自伝である。いわゆる青年が自己を確立するまでを描く立身出世物語(途中)であるが、それにしたって実体験で見たという銀座の一番コアな部分は、最近よく見るキャバ物語とはひと味もふた味も違う。おおよそ、普通に暮らしていてこのような世界がかいま見れることはほぼ皆無であろう。80年代の証言として、非常に興味深い。


    こちらが金が飛び交い欲望の渦巻く、いかにもバブルらしいイメージの80年代だとしたら、もう一つの80年代はあまりにもかけ離れている。外山恒一氏の『青いムーブメント―まったく新しい80年代史』である。保守的な福岡の高校を退学した青年が、学生運動にのめり込んでいくまでを描いた、こちらも自伝である。80年代(自伝で書かれるのは正しくは80年代末~90年代会前半)に学生運動などあったのか? というのがおおよそ一般の持つ感想だろうが、外山氏の語る80年代にはそれは確実に存在した。そして、70年代安保とおなじように、時代の空気に突き動かされた文化的、政治的な盛り上がりが、外山氏の青春と共にこの本に描かれている。左翼がみな天皇崩御によって右翼のテロに遭うと信じ切っていたという、あまりにも奇想天外な終末論の話は白眉である。


    どちらも同じ80年代の中でもかなりエクストリームな話であるが、この時代でなければ起こりえなかった出来事であろう。経済史的に見れば80年代はバブルであり、それを中心に歴史が編纂されるのが表の日本史だろうが、両方共に裏の証言であることが興味深い。外山氏の言う80年代末~90年代頭の運動=青いムーブメントは、青臭いものだったというが、同じぐらい南氏によって語られる銀座もダサイものだったように私には思えてならない。金がうなりを上げていても、最高級のクラブで演奏されるのはハワイアン崩れの音楽であり、オヤジやヤクザが慣れ親しむのは演歌であるのだ。そんな頃から考えると、いつからこれほどまでに世の中が目の色を変えて「本物」を求めるようになったのだろうか。



    白鍵と黒鍵の間に―ピアニスト・エレジー銀座編

    白鍵と黒鍵の間に―ピアニスト・エレジー銀座編








    青いムーブメント―まったく新しい80年代史

    青いムーブメント―まったく新しい80年代史










    2008年5月7日水曜日

    「M/D」その2



     さてこの「M/D」を恐らく編集していたであろう時期に、菊地・大谷コンビは非常に興味深い作品を仕上げている。Naruyoshi Kikuchi Dub Sextet 「The revolution will not be computerized」と大谷能生・門松宏明「大谷能生のフランス革命」である。奇しくも二人ともタイトルに革命(Revolution)を付けたのは、単なる偶然であったとしても、全くの因果関係が無かったわけではあるまい。なぜならば、この「M/D」においても、「革命」がキータームとなるからだ。


     マイルスの生涯を音楽的業績を、彼が常に前進を続けて過去を振り返らなかったとして、革命的であるとする論調は、決して少なくはない。確かに彼が音楽界に多大なる影響を与えたことは衆目一致するところだろう。だが、菊地・大谷はマイルスが革命を起こしたという論調には賛同しない。マイルスが行ったのは、革命ではなくモードチェンジの連続だった、というのだ。


     確かにマイルスの音楽的発展をつぶさに見るからに、電化は遅すぎるくらいのタイミングであったし、モード奏法がジャズ界を一変するほどの威力を持っていたかというと、フリージャズほどのことはなかっただろう。(途中)





    2008年5月6日火曜日

    「M/D」その1



     本来、人の生涯というものは善悪の評価が簡単に付けられないことの連続だというのに、「肯定的に書いた伝記」「否定的に書いた伝記」というものがあるのは、伝記の著者はその人物の生涯から何かを取り出さずにはいられないということの証拠といえるのではないだろうか。そして、大にしてそれは著者自身の顔を写す鏡だったりするのだ。……というのは、菊地成孔・大谷能生著の「M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究」のことである。


    *


     この本は、マイルスの生涯を年を追って見ていく形式であるが、あくまでタイトルが著すとおり「研究」であって「伝記」ではない。「研究」と言うタイトルになったのは、そもそも東京大学で行われた講義録を出版するはずが、菊地成孔氏の追記によって施された、この言い回しを実際の講義でやっていたとしたら天才もしくはキチガイの所行にちがいない、というほどの装飾過多な文体によって増えすぎた内容のためだろう。その文体故に多少の読みにくさを感じざるを得ない部分もあったが、それでもなおこの本は「研究」というには「面白すぎ」だ。


     カッコ書きにしたのはアイロニーではない。「研究」という言葉がまとう、学術的な書式を遙かに踏み越えて、ある意味で主観が横溢する内容になっているからだ。そのために、厳密な学者肌の人から見たら幾分客観性を欠いた内容に見えるかも知れないが、客観性はこの本の意図するところではないだろう。そもそもマイルスの自叙伝や他の伝記を底本として、その生涯の功績を検討するというこの本の態度は、オルタナティブな方向性を提示するという行為に他ならないからである。その内容が事実かどうかをフィールドワークによって検討することは最初からテーマではなかった。いわば、古典的な意味での博物学と言っていいかも知れない。


     さて、最初に書いたように、伝記を書く人間がその題材とする人間から何を見出すか。それはそのままその著者の鏡像といえるのではないだろうか。菊地氏(と言い切ってしまう)がマイルスに見出した、アンビバレンス性や、生まれながらに持っていた品の良さ、革命ではなくモードチェンジを続けていただけ、というテーゼ。それらは全て菊地氏にも見いだせるような気がしなくもないのだ……。


    *


     という些末な感想は、この本を読んで思ったことの一部でしかない。啓発性に富んだこの本の感想を、何日かにわけて書いていこうかと思う。





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