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2011年10月8日土曜日

【映画】パリ20区、僕たちのクラス[現代:entre les murs]

ミニシアター系で少しばかり話題になっていた、『パリ20区、僕たちのクラス』をDVDで見た。日本人からすればフランス=白人社会というステレオタイプで見がちだが、パリ20区というのはそんなイメージと真逆の、移民を中心とした多民族地域である。というより、すでにパリはニューヨーク並みに多種多様な人種が集う町となっている。この映画は、そんな20区のある中学校の国語(フランス語)のクラスの1年の話である。

国語、と言う時点で、我々日本人はめんどくさい読解やら文法やら、と言った内容を想像するが、授業の内容は我々の想像を遙かに下回るレベル。なんと、14歳にもなって初歩の単語(思う:croire)の活用さえ出来ない奴らばかり! 発音も文法も怪しい奴らが大勢。日本で言うなら小学校1~2年レベルとしか思えない有様だ。しかも、どいつもこいつも授業中に内職したり、関係ない質問をしたりとやりたい放題。学級崩壊なんて言葉がだいぶ前から日本でも言われていたけれど、ちょっとこれはレベルが違いすぎる。完全にカオスだ。

主人公はこの映画の原作者であり、実際に1年間の中学教師を務めた人物。こんなことが本当に起きていたのだという。ある教師はあまりの現状の酷さに教員室でヒステリーを巻き散らかす。しかし、皆がその理由を分かっているから、何も言えない。それぞれがいろいろなことを考えて、様々な手を打とうとしているが、誰一人として上手くやれて居る教師はいない。

世に言う「子供が酷いのは親のせい」というのも教師達にも気づいているのだろう、生徒の親たちを呼び出し生徒の現状を告げる。ところが、ある親はフランス語が全く分からず、通信簿に書いている内容を何一つ理解していない。ただ、この子はよい子です、を繰り返すばかりで、息子の問題行動に目を向けようとせず、学校との解決に向けた対話もままならない。またある親は、不法滞在で捕まり、強制送還が見込まれている。

それでもやらなくてはならないんだと、怒りを抑えながら授業を繰り返していても、向こうは子供とは言え、もう1人前の自我も芽生え始める年頃。教師の言葉尻を捕まえては、文句を言ったり、へりくつをこねたり、素直に言うことを聞こうとしない。どうしてそこまで協調性がないのか? いろいろな原因もあるのだろうが、見ていた自分に思ったことは、どうしようもなく精神年齢が低いと言うことだ。自分はやりたいようにやる、ただそれだけという行動規範を占めるのが子供達がほとんどだったように見受けられる。ある意味、規範でがんじがらめにする日本からすると自由にも見受けられるが、正直、日本ならば幼稚園児レベルだろう。

結局、教師は、年頃のセンシティブな子供の気持ちを捉えきれなくて、一部の生徒に「自分は目の敵にされている」という意識を持たれてしまう。そんなわだかまりを解こうと悪戦苦闘するが、結局、教師は怒りを抑えきれなくて、生徒を侮辱的に扱う言葉を使ってしまう。それを鬼の首を取ったように言い振り回る生徒達。子供は禽獣と言うがまさに、である。最後には、気に掛けつつもわだかまりを解くことが出来ず、ある生徒を退学に追いやってしまう。

そして1年。1年を通して彼らが何を身につけたか、それは驚くほど低レベルな物でしかなかった。ある生徒は学期末に、それまで従順に見えたけれど、実は言葉も分からなかったので、ほとんど何も学んでなかったと言い出す。バカンスにはしゃいで教室を飛び出す子供達。教室には、散乱する椅子。誰も直そうとしないその様子が、フランスの教育現場の崩壊を物語っていた。

ロンドン暴動で、移民2世の就労環境の酷さが、暴動を密かに準備していたことが語られているが、同じ事はフランスでも数年前に起こっていた。フランスは当時パリ市長だったサルコジによる強権的な制圧で暴動は拡大しなかったが、已然としてパリ郊外の治安悪化は問題となっていて、それが極右の台頭の原動力となっている。そうした就労環境に悪さの原因の一つとして、教育が問題となっているが、その現場がこれなのだから、一体どこから何を手を付けて良いのだろうか? と考えさせる映画だった。

なお、この映画はドキュメンタリーの体裁を取っているように見えるが、全て演技である。生徒達の演技が余りに自然なので、完全にドキュメンタリーと思い込んでいた。その点は評価に値するが、ここに生徒と教師の心のふれあい、というようなありきたりな感動のドラマはなく(タイトルやジャケットはそれらしく見えるように作ってあるが)、ただすれ違いと問題だけが後に残った。近年の日本人の堕落ぶりを見ると、日本の学校でもおそらくは同じような現状が有るのではないだろうか。





2011年9月13日火曜日

【映画】 ゲンスブールと女たち [原題:Gainsbourg Vie Héroïque]

春先に公開しているのは知っていたが、いろいろ余裕が無くて見られないでいた映画『ゲンスブールと女たち(原題:Gainsbourg Vie Héroïque)』をセンター北まで行って見てきた。



上の予告編では普通の伝記映画のように見えるが、監督がバンド・デシネ(日本でいうマンガ)の作家出身と言うこともあり、実際にはゲンスブールをデフォルメしたような奇妙な人形が登場してきて、合間合間でいろいろと茶々を入れてくる演出がある。最初は、何を余計な演出してるんだ、と思ったが、歳の割にませてながらもどこかはにかみ屋のリュシヤン(ゲンスブールの本名だ)と、挑発者であり女たらしであるセルジュの間に立ち、このマンガ的なキャラクターが表向きの彼の言動では表現しきれない複雑な内面を代弁しており、演出として成功しているように思った。おそらく、予告編はこうしたマンガ的な演出を見て観客が敬遠しないように、意図的に普通の伝記映画のようにしたのだろう(欧米でははマンガやアニメは子供のものという意識がまだ強いのだ)。

ストーリーは年代順に彼の足跡を追るもので、ボリス・ヴィアンとの出会いや、ブリジット・バルドーやジェーン・バーキンらとの恋愛遍歴、ナチスネタのナチロックのリリース(ゲンスブールはユダヤ人)、フランス国歌のレゲエ化にまつわる国粋主義者からの反発とその歌詞の手稿のオークションでの落札など、有名なエピソードはだいたい散りばめられている。おそらく、その多くは伝記か何かをベースにしたものであろう。しかし、それらのエピソードを知っている人でないと、展開が分かりにくい部分もある(たとえば、ブリジット・バルドーのために作曲したはずの「Je t'aime...moi, non plus」が、特に説明がないままジェーン・バーキンとリリースするに至っている、など)。その意味では、展開のテンポの良さを確保するために、細部の描写が端折られている感じはあった。

さて、ゲンスブールと言えば、その歌詞が強烈な個性であるわけだが、一点、その翻訳に疑問を抱いた部分が有った。件の「Je t'aime...moi, non plus」での"moi, non plus"という言い回しなのだが、これは否定疑問文に対する同意なので、本来は「愛してる」という呼びかけに対して「俺も愛してないぜ」と言っているように訳されるべきであるにも係わらず、「そうかもね」みたいな風に(実際になんと翻訳しているか忘れた)辻褄を合わせようとした訳になっていた。フランス語としても変な言い回しなのは事実なのだが、この唐突さが逆に詞に強烈なインパクトを与え、肉体的な愛を歌った詞の中にどこか精神的な齟齬を感じさせる、ゲンスブールの天才業だというのに、それが上手く訳出されていないことが残念だった。

歌詞と言えば、もう一つ。前述した、ゲンスブールの分身たる人形が、あれやこれやと語りを入れるのだが、これがものすごく良い具合にテンポ良く曲に合っている。それはジャズ的なオブリガードとも、ラップ的なライムの入れ方とも違う、シャンソン独自のリズムなのだ。南博氏はアメリカで、黒人の会話が自然にスイングしていることに驚いたと書いていたが、この映画では会話がシャンソンのリズムを作っているのである。日本ではシャンソンはほとんど一部のマニアに限られた人気しかないが、ここから発展させた新しい音楽もありうるのではないか、と思わせられた。

キャストであるが、ゲンスブールを始め、バルドーやバーキンなど、よく見てみればそんなににて無いのにもかかわらず、彼らの持つ特徴をよく捉えた俳優を使っており、実際のゲンスブールの映像(DVDでリリースされているが、マスターテープの保管状態が悪いのか画質はそれなり)よりもこの映画で見た方が、臨場感を持って見ることができた。それにしても、ゲンスブール役は声もよく似ていたが、これは地声なのだろうか? R15指定だけあり、おっぱい満載(大抵巨乳だ)な上に、ゲンスブール役のペニスまでチラ見できるお得(?)さ満点。この作品をモザイクをかけずに上映したことに拍手したい。

関東地方での上映は9月16日まで。10月にはDVDとBlu-rayも発売される。だが、音楽も重要な要素なので、劇場で見ることをオススメしたい。
http://www.gainsbourg-movie.jp/theaters.html









2011年8月28日日曜日

【映画】 黄色い星の子供たち [原題:Le Rafle]

もう1ヶ月ほど前に見た映画だが、改めてレビューを書こう。

題名だけ見ると、まるでSF映画のように感じられるが、舞台は第2次世界大戦中のナチスドイツ占領下のフランス。そこで起こったユダヤ人の大量検挙が主題である。

1940年、ヒトラーの電撃作戦の前にもろくも敗れ去ったフランスは、第1次世界大戦の英雄であるフィリップ・ペタンを首相に据えた傀儡政権をヴィシーに樹立させられ、4年にわたるドイツ占領を経験した。占領はたったの4年だったが、この間のドイツによる占領政策は、実質的な略奪行為と言っても過言ではなく、町という町からありとあらゆる物資が戦時徴収され、食料は言うに及ばず、ガソリンや鉄鋼などの資源、ひいては軍靴に使う皮革までもが不足し、庶民は木靴をはかなければならなかったという。このあたり、『ナチ占領下のパリ』という本に詳しい。

そして、占領政策の悲惨を極めたのが、ユダヤ人政策である。ユダヤ人はすべて胸に黄色いダビデの星を縫い付けた服を着用することを義務づけられ、少しでも星を隠そうものなら、容赦なく検挙された。ユダヤ人商店にもダビデの星が描かれ、フランス人達は隣人にこれほどまでユダヤ人がいたことに驚いたという。やがてユダヤ人への仕打ちは公民権の停止へと至り、「ユダヤ人問題の最終解決(=民族浄化)」が決定されると、フランスでもユダヤ人の検挙が始まった。その頂点が、映画で描かれる1942年7月16日の早朝に行われたヴェル・ディヴの大量検挙である。

ユダヤ人達は胸に黄色いダビデの星を付けさせられ、公共施設への
入場を制限された。しかし、それでも検挙まではまだ無邪気でいられた。
この際、検挙に当たったのはなんとフランス憲兵だった。ユダヤ人1万3000人は老若男女の区別無く、冬期競輪場(ヴェル・ディヴ)に押し込まれ、食物も水も与えられることなく、やがて強制収容所へと送られ、最後にはアウシュビッツやダッハウのガス室へと送られるのだった。

この映画は、その顛末を子供達の視点から描いている。戦時下の厳しい状況にあっても、家族や友人との幸せな毎日を送る子供達に、なぜ自分たちが差別されなくてはならないのか、家族はどうなるのかという辛苦が押し寄せる。幼い子供達から見る差別の理不尽と対置されるのは、フランスの政治家達の打算である。ドイツ側が当初、子供は強制収容の対象としないと言ってきたにもかかわらず、孤児の面倒を見ることは不可能という政治的判断のため、子供までもがガス室送りになった。しかも、政治家達は東欧難民のユダヤ人を減らす好機としてこの機会を利用し、さらにフランス警察の権益確保の交換条件まで交わしたのだ。

命令を破りヴェル・ディヴで放水を行い、水を供給する消防団たち。
この事実は、大量検挙事件と合わせて、フランスの最大のタブーとされ、1995年までその責任を認めず、世間一般からも覆い隠されたという。事実、私は別の占領下フランスを描いた映画『パリの灯は遠く』(主演:アラン・ドロン)のラストで、ユダヤ人達が競技場のようなところに押し込められた末に、列車に乗せられるシーンを見て、その場所は一体何なのか、説明が一切無く分からなかったが、この『黄色い星の子供たち』を見て、それがヴェル・ディヴのことだったとを知った。つまり、当時の人間は知っている歴史的事実であるにもかかわらず、それを積極的に語ることをフランス人達は避けていたのだ。事実、1995年のジャック・シラクによる声明で初めて事件を知り、ショックを受けたフランス人も多かったという。

子供たちも大人と同様の強制収容の対象となった。真ん中が
主人公のジョセフ・ヴァイスマン。
同時期に『サラの鍵』[原題:Elle s'appelait Sarah]という映画も製作されている(こちらは原作付き)ように、この映画はそういうフランスのタブーをようやく克服しようとする過程で生まれた映画なのだろう。上に描いたような政治家達の打算的な駆け引きは、きわめて淡々と描かれ、ユダヤ人の子供とその家族に降りかかる不幸は隠すことなく描かれる。衝撃だったのは、追い詰められ窓から飛び降りて死ぬ妊婦と、その残された幼い子供が母親の死を知らずにいるところだ。追い詰められ死を選んだユダヤ人は少なくないと言われ、かのヴァルター・ベンヤミンも亡命目前に追い詰められて自殺をしている。また、強制収容所で金品をすべて提出するように強制され、隠し持っていた品を見つけられた少女が、ドイツ人将校に殴る蹴るの容赦ない暴行を受けるシーンも衝撃的だった。我々日本人から見たら、容貌のさほど変わらない西洋人同志が、どうしてそれほどまでに冷酷になれるのだろう?

一方で、ユダヤ人差別に抗するがごとく、強制収容所にまで付き添ってユダヤ人医師(ジャン・レノ)と共に病人の看護に当たる、非ユダヤ人看護婦アネット(メラニー・ロラン)も描かれる。ヴェル・ディヴで命令を破ってまで放水で水を与える消防隊員や、検挙の前に警告を発する女性など、人間の尊厳を軽んじなかった人々も、少ないながら登場する。しかし、私たちの視点は彼らと同じだとしても、同じ境遇にいて、同じ事が出来るだろうか? 映画を見ながら、組織的の命令が個人の良心に何ら抵触することなく、暴力を実行させることの恐ろしさを考えた。

強制収容所に送られたはずのノノと再会する看護婦アネット。
あれほど無邪気だったノノの顔にはもはや笑顔はない。
映画のラストは、戦後に数少ない生存者と看護婦が再会するシーンで終わる。子供達の顔には、以前のような屈託のない笑顔はない。彼らの胸から黄色い星は無くなっても、戦争は彼らの心に二度と消えることのない烙印を押したのだ。他の地域のホロコーストに比べても極めて生存者が少なかったため、ヴェル・ディヴの強制収容に関する証言は少ないという。主人公の少年ジョセフ・ヴァイスマンは実在の人物で、この事実を風化してはならないととある政治家に言われ、思い出したくない記憶に向かい合い、その体験を話すべく日本にも来日したという。

映画では非ユダヤ人にもかかわらず献身的な介護活動を続ける看護婦アネット役が光る。彼女はこの歴史的事実のあまりの重さに倒れてしまったこともあったそうだが、この歴史的事実を後世に伝えなければならないと、必死で演じきったという。

実を言うと、このサイトの名称、Les Zazousもこの占領下のフランスと関係があるのだが、その話はまた別の機会に。




2011年8月13日土曜日

John Funkhauser Trio - Time



これまたピアノトリオものの紹介なのだが、おそらく日本でこのアーティストの名前を知っている人はほとんどいないと思う。自分も知らなかった。某南博氏に、バークリー時代の友人としてCDを聴かせてもらって知ったのだが、何とも言えないドリーミングな音が気になり、買って聴いてみたら、これが大当たり!

このアルバムタイトル、ジャズに詳しい人ならピンと来ると思う。そう、デイブ・ブルーベックの「Time Out」と同じく、変拍子ものの曲が多くを占めているのだ。

たとえば1曲目。"On Green Dolphine Street"はジャズ好きなら誰でも知っているスタンダード。これを5拍子でやっている。といっても、いわゆるプログレ的な(=クラシック的な)3/4+2/4*1を余り感じさせないように、ピアノのメロディーがルバートっぽくフレーズを奏で、ドラムはビートをかっちり刻むのでなく、優しく寄り添うようにアクセントを付けている。一聴してこれを5/4と分かる人はなかなかいないんじゃないかな。

同じ事は8曲目の"Come Rain Or Come Shine"にも言えて、こちらは3拍子。サスティンペダルを多用して、流れるようなサウンドを実現させている。ECM的にエコーを深くかけたものはあっても、こういうサスティンペダルを多用した演奏って、有りそうでなかなか無い。

そのほか、自作曲の2曲目"Ellipse"は、ピアノの左手が5/8で右手が7/8で、35小節ごとに周期が合うという、まるでキング・クリムゾンの"Discipline"のようなことをやっているのだ。ちなみにベースは6/8×5+5/8で35小節目で一周、ドラムは35ビート。さすがにソロの部分は5/8になるが、これもまたジャズでは珍しい試み。

などなど、複雑な変拍子を多用した作品なのだが、プログレにありがちなガチガチなキメがなく、どの楽器もアクセントの置き場所を自由自在に操り、隙間を作ることで、聴き手に変拍子を意識させず、たゆたうようなサウンドを実現させているのだ。私も散々ジャズは聴いたけれど、類似の作品を知らない。

しかも、ググって知ったのだが、この人、なんとベーシストでもあるそう。世の中才能のある人というのはいるものだ。

これだけ良いのに、なんと販売はCD Baby(アメリカの自主製作ものの流通業者)。う~~~ん、惜しい。日本のジャズ関係者はもっとこの人に注目して、CDを作らせてはどうか。こういうピアノトリオこそ、世に知られるべきだ。

*1 たとえば"Lark's Tangue In Aspic Part2"は3/8+2/8で5拍子




2011年8月11日木曜日

Otomo Yoshihide New Jazz Orchestra - Out To Lunch



もう6年ぐらいの作品だが、CDを売りに行ったところで思わず見つけてしまったので、購入してみた。これは大友良英ニュージャズクインテットをオーケストラにまで拡大して、エリック・ドルフィーの「Out To Lunch」をカバーするという趣向のもの。

聴いてみて、ちょうどアレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハの「Monks Casino」との近似性を感じた。


シェリッペンバッハは70年代ヨーロッパフリーの騎手で、現代音楽を出自に持つピアニストである。その彼が、アクセル・ドゥナー(奇しくも大友のOut To Lunchにも参加)などのメンバーを集めて、コンボ形式でモンクの全オリジナル曲を演奏したのが「Monks Casino」だ。これを以前購入して聴いていたのだが、シェリッペンバッハの個性である、アメリカのフリーのような過激さとは少し違う、ヨーロッパならではの知的でクールなフリーさが余り感じられず、サウンドは普通のバップに近かった。コンセプトはあったのかもしれないが、モンクの作品が持つ個性をどう扱うか、手に余っているという印象を受けた。

大友の「Out To Lunch」にもそれは当てはまる。

ドルフィーの「Out To Lunch」は、いわばフリーとフリーに興味がありつつもまだ調性の中にとどまっている新主流派の会合であり、両者の拮抗が面白い作品だった。大友のバージョンでは、中村としまるや宇波拓といったジャズとは距離のあるいわゆる「音響派」ミュージシャンと、津上健太や水谷浩章や芳垣安洋といったオーソドックスなジャズのフィールドで活躍するミュージシャンとの共演が、当初のコンセプトであったのだろう。ところが実際には、中村達の存在はほぼ効果音的な程度にしか認められず、全体として聴くと単なるフリージャズにしか聞こえないのである。つまり、オリジナルの面白いところを換骨奪胎するわけでも、新しい解釈を提示してみせるわけでもないのだ。フリージャズが好きな人たちにとっては中村達の存在は邪魔で、音響派に興味がある人たちにとっては津上たちの存在は凡庸になってしまっているのである。つまりこちらもドルフィーの個性をどう扱うか、手に余っている感じがするのだ。

ミュージシャンが音楽を作るのに「やりたかったから」以外の理由はいらないかもしれない、でも、やるからには、聴く方に「そうか、これがしたかったのか!」と言わせるだけのものを提示して見せて欲しい。大友は、もっとジャズから遊離するような方向を模索してみても良かったんじゃないだろうか。




2011年8月5日金曜日

ガセネタ - ガセネタ In the Box ちらかしっぱなし




結局なんだかんだ言って、ガセネタ In the boxを購入してしまった。10枚組。なんてことだ、聴くだけでもちょっとした拷問だ。自分で言うのも何だが酔狂としか言い様がない。まだ半分しか聴き終えていないが、この時点で言えることはオススメだと言うことだ。ただし留保点がいくつも付くので、詳しく読むように。行くぞ。

まず、この音源に音質を求めてはいけない。

ほとんどがオーディエンス録音である上、スタジオ録音ですらワンマイクで録っている。ベースが聞こえるときはボーカルは聞こえず、ボーカルが聞こえるときはベースが聞こえず、両方がハッキリ聞こえるときは音はスカスカという、音質としてはブートレッグと大差ないどころかサウンドボード録音やエアチェックのブートのほうがまだマシだ。まぁ、世にはキングクリムゾンの「Earthbound」すらネタにするDJもいるぐらいなので、音質が悪くても気にしないという人間は居るだろう。ましてや、音質が悪いからこそ荒々しいガレージサウンドが表現されているとも言える。

そして、曲のバラエティなどを求めてはいけない。

ガセネタのレパートリーはたったの4曲だけだ。「宇宙人の春」「父ちゃんのポーが聞こえる」「雨上がりのバラード」「社会復帰」のみ。

それだけでCD10枚が埋められるのかって? 埋めてるんだこれが。

Disc 1、2は「雨上がりのバラード」のみ全21曲、Disc 3、4は「父ちゃんのポーが聞こえる」のみ全20曲、Disc5は良心的だぞ、「宇宙人の春」が8曲だけと「社会復帰」が3曲だけ。Disc 6はアウトテイクと称して今まで挙げた4曲が何曲かずつか計16曲。Disc 7は未聴だが初期セッションが3テイク、Disc 8はガセネタのメンツに誰かが加わったりしたような変則編成の9曲(今挙げた4曲以外も入ってるけど、これらはガセネタの演奏と言っていいのか?)、Disc 9ではハイライズによるガセネタ曲演奏(一部で山崎晴美や大里俊晴も参加している)、最後、Disc 10はMOODMANによるノンストップミックスが3つ。

さあどう? 買う気でた? 俺ぜんぜんわかんないんだけど。

結局、ガセネタとは、山崎、浜野、大里という3人が、何も知らないまま突き進んで、とんでもない方向に皆で行こうとして、そして終わるしか無かったバンドだったんだと思う。誰もが子供のままでいられないように、彼らもガセネタで活動し続けるほどの純粋さ(純粋さとは無垢とは限らないぜ)を保つことはできなかったと思う。10代の終わりから20代頭にかけての微妙な季節は、無残にも終わりが来る。大里は「いつも同じ事はしなかった」と言うけれど、一方で「終わり続け」ていたとも書いている。冷静にこの10枚組を聞けば、たしかに彼らは同じ音は弾かなかったかもしれないけど、同じ事の繰り返しにも聞こえる。そう、彼らは最初っから終わりにたどり着いていたから、先には行けなかったんだ。

大里にできたことは、そこから降りることだった。事実はどうであれ、彼は降りたんだと自分で思っていたんだと思う。そして、その後ろめたさが、その総括たる書籍「ガセネタの荒野」になったんじゃないかな、と思うのは、彼の隠れたロマンティストぶりを垣間見たから言えるのだろうか。

結局、この原稿も先に行けそうにない。終わり続けるしかなさそうだ。彼らが残した、もうこの機会を逃したら2度と手に入らないだろう10枚のCDを聴きながら。

<追記>
なんと、10月にはグレイテスト・ヒッツなるCDが出るらしい。未発表テイク収録だそうだ。なんだそりゃ。




2011年7月28日木曜日

Jakszyk, Fripp and Collins - A Scarcity of Miracles




引退を表明したらしいロバート・フリップから、もはや最新音源を届けられることはないのではないかと思っていたのだが、唐突に新作が発表された。しかも、かつてのクリムゾンメンバーであるメル・コリンズとの共演であり、さらに"A King Crimson ProjeKCt"と銘打たれている。40th Anniversary seriesと同じDVD-AとCDのバージョンを購入してみた。

聴いた感想は一言で言うと、残念、である。まるで、ジャクスィクのソロアルバムのようだ。

もともとはこの作品は、フリップとジャクスィクとのインプロが元になっているらしく、DVD-Aにその元バージョンが収録されているが、それを聴くと本編と全く別物である。そこでは、フリップはほとんどサウンドスケープしか弾いていない。それが、このようにきちんとしたソングになっているというのは、おそらくはジャクスィクの作った楽曲に、インプロの素材を切り貼りして、ベース(トニー・レヴィン)とドラム(ギャヴィン・ハリソン)を足した、という作り方をしたのではないだろうか。当初、フリップはサウンドスケープしか弾いてないのではないかと訝しんだが、よくよく聴けば、彼特有のハンバッカーのロングサスティンサウンドが聞こえる。後で、ギターソロを足したのかもしれないが、今時Line 6あたりのシュミレーターでも作れるサウンドなので、ジャクスィクが弾いている可能性もある。

楽曲の質は悪くない。メロディ的に面白い展開をする曲もあるし、キングクリムゾンを思い起こさせるひねくれたリフも聴かれる。そういうところがフリップをして"A King Crimson ProjeKCt"と銘打たせるに至ったのかもしれない。

しかしだ。メンバー同士の共同作業によるマジック、かつての70年代のイエスやクリムゾンがやってきたような、ジャムセッションの中から素材を作り出し、皆で発展させていくという、メンバー間の相互作用がどうにも見いだせない。フリップのプレイは、ジャクスィクのソロ作品の素材でしかないかのようだ。イエスのアルバム「ユニオン」は、そうした共同作業が全く行えなかったことにより駄作となったが(これについては別のエントリーを上げる予定)、クリムゾンは80年代以降は一貫してリハーサルによるジャムセッションで楽曲を作ってきた。そのような共同作業が今回あったとはとても思えないし、他のプロジェクトもののようにインプロがそのまま収録されているわけでもない。それがきっと、この作品がジャクスィクのソロアルバムであるかのように聞こえてしまう理由なのだろう。

とはいえど、聴き所はある。楽曲は水準以上だし、ジャクスィクの声は平凡だが、陰鬱なメロディーには合っている。コリンズによる、メロディの合間を縫うような熟練のサックスプレイは、スターレスを思い起こさせる。レヴィンとハリソンのプレイは単なるセッションプレイヤーの域を超えて、魅力的なプレイを聴かせて作品に貢献している。フリップのギターソロが一番目立っていない。

結局、クリムゾンの名に期待しすぎたのかもしれない。おおよそ世間の評判も同じのようだ。フリップがクリムゾンの名前を付けなければ、評価は変わっていたかもしれない。興味を持たれた方は、DVD-AとCDのバージョンを購入することを強く勧める。上に書いたように、本作品の元となったインプロが聞けるからだ。ただし、大抵のDVDプレーヤーはDVD-Aを再生できるが、ほとんどのブルーレイプレイヤーはDVD-Aに対応していないので注意されたい。


2011年7月25日月曜日

大里俊晴 - 『ガセネタの荒野』




一言で言えば、唐突な再版だ。

著者・大里俊晴は、2009年11月17日に逝去した音楽学者である。本著は、彼の青春時代に活動していたバンド「ガセネタ」*1について綴ったもので、もともとは91年に洋泉社にて刊行されていたもので、著者の生前唯一の単著だ。内容は、浜野純・山崎春美という2人の天才に大里が圧倒され、加速し続けあらゆるものを削ぎ落とし続けた濃密な時間についての記録である。

私自身のプロフィールとも重なるが、大里氏は私の兄弟子であり、先生でもあった。かつて、知人から斯様な本を書いていることは知っていたが、あとがきに「古本屋のワゴンで10円で並んでいることを願う」*2というようなことを書いていらしいと聞いて、常々探していた。それが、渋谷タワレコに並んでいたのである。しかも新刊。まったく唐突といったらありゃしない。帰りの電車で恐ろしい勢いで読みふけり、最寄り駅のベンチに座ったまま一気に読破した。

感想を一言で言うなら、読まなけりゃ良かった、である。

内容がつまらないわけではない。破滅するしかなかった者たちの記録のようでもあり、そこから逃げ出した大里氏の後悔のようでもある。ガセネタの音楽を少しばかり聴いたことがあるが、そのあまりにも鋭い音は、本著での大里氏の切実な心情吐露*3とよく似た、刹那的な音だった。自殺的といおうか、あるいはチキンランのような、とでも言おうか。このようなものを誰が書ける? ここまで赤裸々な心情吐露をあけっぴろげにすることが誰にできる?

しかしそれだけに、なぜ今?という唐突感がぬぐえない。

ガセネタの音源が10枚組みBOXで発売されるからか? 死後、関係者によって大里の業績を世に残すためだったのか? そのいずれでもあり、いずれでもないのかもしれない。

だが、自分は山崎春美の題字による装丁など見たくなかった。死して2人は和解したとでも言うのか? 追悼文集*4の山崎の文章は、ほかの誰よりも美しかった。それはこう結ばれている。「ほんとうは二人で、ぼくと大里との二人で、見知った見知らぬ人たち、少女たち、女の子たちを、片っ端から犯すしかなかったんだ。ぜったい。それ以外に未来はなかった。(略)そしたら、ぼくもきみも浜野もみんな一緒にいられたのになあ。」 やっぱり破滅以外に道はなかった。だから、こんな幻滅はない。

本当は、「出会うべき者はいずれ会う」のであれば、それは唐突でもないのかもしれない。けれど、やっぱりそれは古本屋のワゴンで出会いたかった。1400円もの金を出して、彼らの過ごしたアングラの空気を追体験した気になるなんて、どれほど陳腐なことか。そんな疑念が払拭できずにいるし、一方でどんどん発行してもう歴史にしてしまえよ、とも思っている。

追悼文集を我が家のトイレにずっと置き続けているのが、せめてもの自分の弔い方だ。

<追記1>
7/26のDommuneにてガセネタ特集があり、山崎晴美が出演して、ガセネタの曲を歌ったという。山崎氏のパーソナリティは、下の脚注3と全く正反対で、自分がどのように見られるかなどに無頓着なのではないだろうか。

<追記2>
結局、ガセネタBOXを注文してしまった。さらに、ディスクユニオンの張り紙で今後「タコBOX」「大里俊晴BOX」も出るらしいことを知った。本文のように書いたが、もういっそうのこと、伝説から引きずり下ろしてしまえという気分に変わった。

*1 バンド名は頻繁に変わったという。「こたつに吠えろ」「て」など。
*2 あとがきを読んでみたが、そのような記述はなかった。また、とある女性に本書を捧げる、というようなことも書いてあったと聞いたが、その記述もない。再販にあたり、遺稿を元にしたとあったので、削られたのかもしれない。その理由は自分には知るべくもない。
*3 大里氏を語るときに、彼の自己滅却的な性格(シャイとも書かれている)が多く口にされるが、私の評価は逆だ。大里氏は根っからのロマンティストだ。自意識が過剰であるからこそ、自分を消し去ろうとするのだ。自分に無頓着なら、さらけ出された自分にどんな評価を下されようとも、まったく意に介さないはずである。
*4 一部書店やネット経由などで購入できると思う。こちらは題字がジム・オルーク。そんな風にサブカル著名人を引っ張り出してくる感覚には、どうもなじめない。

クリムゾンのニューアルバム?「The Reconstrukction of Light」

クリムゾンが現行ラインナップでスタジオアルバムを作る予定はないと発言していることは有名だが、クリムゾンの最新スタジオアルバムと言えるかもしれない作品が登場した。それが6月発売されたばかりの「The Reconstrucktion of Light」だ。これは「The Constr...