もう6年ぐらいの作品だが、CDを売りに行ったところで思わず見つけてしまったので、購入してみた。これは大友良英ニュージャズクインテットをオーケストラにまで拡大して、エリック・ドルフィーの「Out To Lunch」をカバーするという趣向のもの。
聴いてみて、ちょうどアレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハの「Monks Casino」との近似性を感じた。
シェリッペンバッハは70年代ヨーロッパフリーの騎手で、現代音楽を出自に持つピアニストである。その彼が、アクセル・ドゥナー(奇しくも大友のOut To Lunchにも参加)などのメンバーを集めて、コンボ形式でモンクの全オリジナル曲を演奏したのが「Monks Casino」だ。これを以前購入して聴いていたのだが、シェリッペンバッハの個性である、アメリカのフリーのような過激さとは少し違う、ヨーロッパならではの知的でクールなフリーさが余り感じられず、サウンドは普通のバップに近かった。コンセプトはあったのかもしれないが、モンクの作品が持つ個性をどう扱うか、手に余っているという印象を受けた。
大友の「Out To Lunch」にもそれは当てはまる。
ドルフィーの「Out To Lunch」は、いわばフリーとフリーに興味がありつつもまだ調性の中にとどまっている新主流派の会合であり、両者の拮抗が面白い作品だった。大友のバージョンでは、中村としまるや宇波拓といったジャズとは距離のあるいわゆる「音響派」ミュージシャンと、津上健太や水谷浩章や芳垣安洋といったオーソドックスなジャズのフィールドで活躍するミュージシャンとの共演が、当初のコンセプトであったのだろう。ところが実際には、中村達の存在はほぼ効果音的な程度にしか認められず、全体として聴くと単なるフリージャズにしか聞こえないのである。つまり、オリジナルの面白いところを換骨奪胎するわけでも、新しい解釈を提示してみせるわけでもないのだ。フリージャズが好きな人たちにとっては中村達の存在は邪魔で、音響派に興味がある人たちにとっては津上たちの存在は凡庸になってしまっているのである。つまりこちらもドルフィーの個性をどう扱うか、手に余っている感じがするのだ。
ミュージシャンが音楽を作るのに「やりたかったから」以外の理由はいらないかもしれない、でも、やるからには、聴く方に「そうか、これがしたかったのか!」と言わせるだけのものを提示して見せて欲しい。大友は、もっとジャズから遊離するような方向を模索してみても良かったんじゃないだろうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿