17日に、兄弟子であり、師でもあった大里俊晴さんが亡くなった。
私と大里さんの出会いは約10年前にさかのぼる。司法試験という道を目指して早稲田の法学部に入学したものの、退屈きわまりない法律の授業に辟易としていた私は、サークルでの音楽活動に耽溺し、あっという間に授業に出なくなった。
それが3年目の春、いわゆる大学生の間で言うところの4月病という奴だろうか、ふとこれではいかんとふと法学部にいながらにして、文学部のような授業を受講することを思いついて、人文系の授業(つまり一般教養だ)にたくさん登録した。
その中の一つにフランス語上級というものがあった。この授業は、広告でフランス語を習った者のみが必修となる科目で、実質的には早稲田学院の生徒のみが受講する授業で、私のような公立高校出身の人間は誰も受講していなかった。それを担当していたのが、私と大里さんの共通の師匠である、塚原史先生である。
その塚原先生からあるとき「僕の弟子みたいな奴がいるんだけどさ、法学部で音楽を教えてて、坂上(桂子)先生から聞いたんだけれど、君は結構音楽もやるんだろう? だったら出てみたらどうかな。変わった奴でなかなかおもしろいと思うよ」と言われた。そのときの私は、クラシックの中でも近現代の異端的な音楽に耽溺していて、そんなすごい先生でもないだろうと思い、その年の科目登録では登録をしなかった。
その翌年、私のおぼろげな記憶では科目登録の開始日を間違えたため、残った授業が余りなく、何かいい物はないかと探してみたところ、その音楽の授業でまだ定員が空いていることを掲示板で見つけた。掲示板にはこう書いていたはずだ。
「音楽美学 大里俊晴」
とりあえず、残っている中で一番おもしろそうだと思った私は、その授業を受講することにした。それは、まだできたばかりだった教育学部の新教棟の視聴覚室だったと思う。真新しい建物に広い教室と音響設備。どのような授業が始まるのかと思い、そこに出てきたのは、黒の皮ジャンとサングラスの、黒ずくめの、お世辞にも講師とは見えない、ディスクユニオンか西新宿でブート漁りしてきた帰りとしか思えないような人だった。
今となっては授業の内容はおぼろげにしか覚えていない。それは人によっては、授業と呼べるようなものではなかったのかもしれない。様々な珍しい音楽や映像を流して、それがどうしてこんな事をしているのか、なんでそういうことをするのか、ということをあの饒舌な、でもどこか照れたような口調で話し始めた。
最初の授業が終ったとき、私は大里さんのファンになっていた。その内容は、下手をしたら単なる知識披露に陥る可能性もあったのかもしれないけれど、そうは感じなかったのは、きっと今を支配する何かに対する批判が底にあったと思うのだ。今思い出せと言われてもぱっとは出てこないが、覚えているのは、「ジャンプが一時500万部以上も売れていた世界というのは今考えれば異常なことだと思わないか?」「DVDのリージョンという考え方が気にくわない」といった話だ。個が収束して集団となったとき、それが一つの権力として作用する、そのにおいに敏感だったのだろうと、今となっては思う。
そういう批判精神、それも誰もが普通で当たり前だと受け入れるような者に対する、ひるむことのない言葉に、これこそが自分の行く道だと深く思ったのだ。それからは、大里さんについて回って、いろいろなことを聞いて回ったりした。
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あるとき、大里さんがフランスからミュージシャンを呼ぶと授業で予告したことがある。フランスのプログレバンド、カタログのギタリストだったジャン・フランソワ・ポーブロスと、フリーのサックス奏者であるミッシェル・ドネダが来るという。場所は西荻窪だ。私は当然出かけた。
ハッキリとは覚えていないのだが、大里さんに頼まれたか、あるいはたまたまだったか、開演より少し早い時間に会場近くの古本喫茶で大里さんと会った。そこで言われたのが、「楽器を家から取ってくるので、ちょっとここにいてポーブロスが来たら大里はもう少し後で来ると言っといてくれないか」と言われたのであった。当時の私は全然フランス語なんてしゃべれないので、「フランス語しゃべれないんですけれど、どうしたらいいのですか」と聞いたら、たしか、どうにかなるとか英語でいいとか言われたはずだ。そして実際に、ポーブロスはやってきて、たどたどしい英語で「大里はもう少ししたら来る」と言ったと記憶している。
ライブは驚くほど狭い会場で、しかし拍子抜けするほど人がいなかった記憶がある。同じ授業に出ていた奴らはおそらくいなかったのではないか(後に『Choice & Place』という本を一緒に作った吉田大助君―今は演劇評論家らしい―はいたかもしれない)。ライブの内容はフリーインプロヴィゼーションそのものだった。大里さんはエレキベースと口琴を演奏していた。ベースの演奏は当然ジャズでもロックでもない、ハードコアな演奏だったような気がするが、それだけではなかったように記憶している。今では、ちょうどデレク・ベイリーのような演奏だった気がする。ドネダはフランス人2~3人と共に、ものすごく遅れてやってきたので、3人のアンサンブル(?)はほんの数曲だった気がする。
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あるとき、大里さんが授業を休講するという。それは、フランスに関する本を書いてくれと言われているが、締め切りが間近だか過ぎているかだか、最近のフランス事情を知らないので、仕方がないからフランスに行くということだった。
ところが帰ってきて最初の授業で顛末を聞いたら、「レコード屋に行ったら、頭が真っ白になって、ついレコードを買いまくって、原稿は1文字も書かなかった。買いすぎたので来月カード破産する予定」ということだった。これには笑ったが、無事に本が出たところを見ると、おそらくは冗談も入っていたのだろうか。ともかく、大里さんは遅筆で有名で、原稿が遅いという話をちらほら聞いた。
だが、その遅筆というのも、ただ単に自己管理がなっていないというだけが理由ではないと、今にしてみれば思うのだ。大里さんは、集団の暴力というものに恐ろしく敏感な感性を持っていた。あくまで少数者であることを望み、誰もが当たり前だと思う陰でマイノリティを虐げる、多数者による善の暴力(透き通った悪、あるいは悪の透明性とでも言えようか)を糾弾する声を止めることはなかった。あくまで私の考えでしかないが、もしかすると大里さんからすると、メディアを使った批評というのも、ある種の暴力に感じられたのではなかったのでは無いだろうか。権力を批判する言葉がいつしか権力になってしまう瞬間。メディアにはそういう恐ろしいところがある。この私の殴り書きのような文章では、今はうまく説明出来ないが、どうもそういう居心地の悪さを大里さんはずっと感じていたような気がしている。
ネットにいくつか書かれた大里さんの同僚の方々の話では、とてもシャイな人だったという。なるほど、そうだったのかもしれないが、私にはなぜかとても気さくだった。会うといつもあの口調で、「ひさしぶりじゃ~ん、最近なにやってんの?」と言って、最近の近況を報告したりするのだった。
そういえば、フレデリク・ジェフスキのコンサートを一緒に見に行った記憶がある。待ち合わせたのかたまたま会場で会ったのか。オペラシティの入り口で、「前にいるの、一柳慧だぜ!」と大里さんがささやいたのを覚えている。ジェフスキと高橋悠治のエピソードなどを聞いた気がする。ジェフスキは歯を磨かないので、エスキモーの音遊び(互いの口に息を吹きかけるらしい)をするとくさくてたまらない、とか。私も、マルク=アンドレ・アムランが、ジェフスキと会ったときお互い英語が話せることを知ってるのにずっと下手なフランス語で話しかけられたと言ってた、とか話したと思う。
横浜国立大学の大里さんの授業で、クリエイターを呼んでインタビューなどを行う授業を行っていたが(なんでも予算数回分でやっとインタビュイーへのギャラになるから数ヶ月に1回だとか言ってた)、それに漫画家の山本直樹さんを呼ぶというので、山本さんと親しくしていたので(今でも月1で飲んでるが)、横国までエスコートしてくれと言われたことがある。
エスコートして横国の大里研究室に入ってみると、それは果たしてCDと楽器の山だった。研究室と言うよりは、趣味が高じたオタクの倉庫のようだった。知らないCDも山のようにあったが、マイルスのアガパンみたいなメジャーなのもいくつかあったような記憶がある。そのときのインタビューの様子はネットでも読むことができる。
http://www.yamamotonaoki.com/report/ynu/index.html
考えてみれば、着るモノにこだわらず、冬でもサンダルと言う点で、大里さんと山本さんは非常によく似ていたような気がする。シャイなところもよく似ている。
大里さんと最後に会ったのは、もう2年前の12月になるだろうか。昔、私が潜ってでも出ていた一般教養に、教養演習だかというゼミ形式の授業ができて、そこで法学部のフランス系の講師が合同で忘年会をやるというので、塚原先生に誘われたのだった。在学中は面識の無かった谷昌親先生、塚原先生、それに大里さんがいた。他にもフランス人の人がいたが、卒業生の私には当時のカリキュラムは分からないので、それが誰だったかは分からない。他にも講師はいたと思う(坂上先生がいなくて、塚原先生が携帯で電話していた記憶がある)。
例によって、大里さんは「ひさしぶりじゃん~今なにやってんの?」と、あの笑顔で迎えてくれた。ところが、ふと見ると大里さんがスパスパとタバコを吸っていたので、あれ?喫煙者だったっけと思い聞いて見ると
「ちがうんだよ、大学の教授会でさ、『研究室は国が君たちに貸し与えたものだから、喫煙なんてもってのほかだ』なんて権力に笠に着たような言い方をするからさ、頭に来て、その場で手を挙げて『俺、ずっとタバコ吸ってなかったんですけど、今日から喫煙者に戻ります』と言って、また吸い始めたんだよ。久々だから、ニコチンXXグラムから始めてんの(笑)」
素晴らしい。こんな事ができる助教授が、いや、こんな事が堂々とできる人間いったい世に何人いる?
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その席で、「実は例の横国の授業で、藤井郷子を呼びたいと思っててさ、細谷君知らない?」と聞かれたので、師匠の南博さんが同じく宅孝二門下だったことを思い出し、南さんに聞いて見ると答えた。しかし、南さんは連絡先を知らなくて「ピットインで教えてくれんじゃない?」というのでピットインに聞いて見たら、迷ったあげく「個人情報だから」と言われて、住所でもいいからと言っても教えてもらえなかった。個人情報保護法なんて悪法だなと思った自分が、今は会社でPマーク更新を担当しているのだから、何とも皮肉なものである。
大里さんの具合が悪いことを知ったのは、Mixiでの野々村氏の日記からである。常々気にかけていたが、それからしばらく何も知らせを聞かなかったので、癌の様子は相当悪いらしいとは聞いていても、どうにかなったのではと思っていた。会いに行きたいとは思っていたが、体に負担になるのは避けようと、何もせずにいたある2009年11月の第1週のこと、ふとネットであれこれ検索してみると、大里さんの横国の授業の宣伝が出ているではないか。
ゲストは藤井郷子と田村夏樹。そう、私が連絡先を調べきれなかった、あの藤井郷子ではないか。これはいい機会だ、大里さんと会って話はできなくても、挨拶ぐらいはできるだろうと思った。日時は11月8日(土)とある。私はその日の日仏の授業を休んで、それに行くことに決めた。
ところが、出発前に、何号館でやるのかなと思い、再度ネットにあった告知を確認して見ると、なにか違和感を覚えた……そう、11月8日は土曜日ではなく日曜日ではないか。ハッと気がついた。これは2009年の話ではなく、2008年の話だったのだ。
大里さんが亡くなったのはそれから10日後のことだ。
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文中で、「大里先生」ではなく「大里さん」として書いているが、これは、自分は生徒ではなく後輩でありたいからであって、決して悪意や馴れ馴れしい思いはないことを理解いただきたい。生前も度々大里さんと呼んでいた。兄弟子というのは、塚原先生が大里さんのことを弟子と呼び、また私のことも、「僕をしたってくれる奴が何人かいて、その人たちを弟子とか呼んでるんだけれど、君も僕の弟子になるね」と言われたことによるものだ。だが、まだ私は彼ら2人と比べられるような事を何一つ成し遂げていない。
語ることはまだまだあって、きっとそれは今はまとめきれないだろう。モノを書いたり編集をすることを生業としていたくせに、仕事以外で文章を書けない状態がずっと続いている。だから、書くのは後とさせて欲しい。だが、大里さんの書いたものをまとめることをやりたいと思っている。自分は出版社に所属していないので、それが可能かどうかはわかならないが、誰かが動き出さないと。通夜で出会った生徒たち(PILの帽子をかぶった彼と、新卒1年目の彼と)にもそう話した。それは私でなくてもいいのかもしれないが、ひょっとしたら、この世の関節が外れた音でも聞いてしまったのかもしれない。