一言にバブルと片付けられることが多い80年代。とはいえ、子供心にもあの頃は世の中全体が喧噪に包まれていたような気がしている。とはいえども、この2つの80年代を過ごした体験記は、そんなステレオタイプな80年代観とはあまりにもかけ離れている。
1つは、我が師匠、南博氏の『白鍵と黒鍵の間に~ピアニスト・エレジー銀座編~』である。ジャズにかぶれてしまったがために音楽高校を放り出された青年が、夜の銀座でピアノを弾き、やがてアメリカへ渡るまでを描いた自伝である。いわゆる青年が自己を確立するまでを描く立身出世物語(途中)であるが、それにしたって実体験で見たという銀座の一番コアな部分は、最近よく見るキャバ物語とはひと味もふた味も違う。おおよそ、普通に暮らしていてこのような世界がかいま見れることはほぼ皆無であろう。80年代の証言として、非常に興味深い。
こちらが金が飛び交い欲望の渦巻く、いかにもバブルらしいイメージの80年代だとしたら、もう一つの80年代はあまりにもかけ離れている。外山恒一氏の『青いムーブメント―まったく新しい80年代史』である。保守的な福岡の高校を退学した青年が、学生運動にのめり込んでいくまでを描いた、こちらも自伝である。80年代(自伝で書かれるのは正しくは80年代末~90年代会前半)に学生運動などあったのか? というのがおおよそ一般の持つ感想だろうが、外山氏の語る80年代にはそれは確実に存在した。そして、70年代安保とおなじように、時代の空気に突き動かされた文化的、政治的な盛り上がりが、外山氏の青春と共にこの本に描かれている。左翼がみな天皇崩御によって右翼のテロに遭うと信じ切っていたという、あまりにも奇想天外な終末論の話は白眉である。
どちらも同じ80年代の中でもかなりエクストリームな話であるが、この時代でなければ起こりえなかった出来事であろう。経済史的に見れば80年代はバブルであり、それを中心に歴史が編纂されるのが表の日本史だろうが、両方共に裏の証言であることが興味深い。外山氏の言う80年代末~90年代頭の運動=青いムーブメントは、青臭いものだったというが、同じぐらい南氏によって語られる銀座もダサイものだったように私には思えてならない。金がうなりを上げていても、最高級のクラブで演奏されるのはハワイアン崩れの音楽であり、オヤジやヤクザが慣れ親しむのは演歌であるのだ。そんな頃から考えると、いつからこれほどまでに世の中が目の色を変えて「本物」を求めるようになったのだろうか。