私がまだ紙媒体の月刊誌を編集していた頃のことだ。ウェブメディアというのは、まだ海のものとも山のものともつかぬ物だった。当然、採算が取れようはずもなかったが、将来かならず伸びるという予想の下、さまざまな試行錯誤が続けられていた。
それから、何年か経って。ITMediaのように上場を果たす企業も出てくるなど、ウェブメディアは急速に金を稼げるものとなった。当初は「ページビューがあってもどこで金を取れるんだ?」といっていたものだが、視聴者から直接金を取らない民放が事業として成り立つのだから、ウェブが金にならないはずはなかった。しかし、その過程には実にさまざまなウェブメディアを巡る幻想があったものだった。否定的なモノも、肯定的なモノも、それらは誤解をはらんでいた。
既存メディアがウェブに食われてしまう、という言説がおそらくは最も代表的なものだ。これにもっとも執着していたのは新聞社だろう。ウェブも紙も、同じテキストと画像を扱うことから、新聞で載せているモノをウェブで載せることに抵抗感があったのだろう。だが、それも過去のモノとなった。そもそもウェブの読者と新聞の読者とは、別の層であることに気がついたのだろう。また、広告モデルで事業が成り行くようになったことも大きい。
もう一つ――それが今回の主題なのであるが――ウェブでは表現が広がるという幻想だ。
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われわれ紙メディアの編集者は、限られた紙のスペースをどのように使うかに頭を悩ませる。レイアウトというレベルから、連載ページの奪い合いまで、文字数やスペースの制限と戦った経験の無い編集者はいない。そんな紙の人間からすると、ウェブは天国に見えたのだ。
ウェブでは文字の制限がない。個人のホームページには、実に偏執狂的につづられた長大な文章があふれているではないか。紙では短く切らざるを得なかった記事も、ウェブなら全てを収録することができる、と。ところがウェブで記事を書くようになって、これがなんとも牧歌的な幻想に過ぎないことを意識せざるを得なくなった。
ウェブでは長い記事など求められていなかったのだ。自分が読者になってみれば一目瞭然だが、モニターで長い文章を読むのはきつい。1行の文字数がぎっしりなモノは論外としても、縦にいつまでも続くような記事など誰も読みたくないのだ。ページ化がされたとしても、1ページ目で面白くなかったら、2ページ目など誰もクリックしない。
それに、ページ数もウェブでは5ページ以上は長いのだ。小説なら100ページくらい当たり前でも、ウェブでは10ページすら許容されない。個人ページなら読みたい奴だけが読めばいいで開き直れるが、商業サイトでは読者に読まれない記事は存在しないのと同じだ。
結局、ウェブで求められているのは、ページ数が少なくて、軽く読めて、それでいて少し扇情的な見出しが付けられていてついクリックしたくなってしまうような話題がほとんどなのだ。そもそもウェブサーフィンなんて呼んでいたものが、ザッピングそのものだったことからも明らかだったのだが。
だから、長文になりそうなコアなネタは、なかなか記事になりにくい。ページが多くてもウェブは紙代がかからないじゃないかと思っていても、視聴率の悪い記事はやはり紙代と同じように足かせとなる。紙の部数のようにいい加減なモノと違い、アクセス数が可視化されてしまう以上、ウェブの方がもっとシビアかも知れない。
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もちろん、ウェブには紙にない可能性はある。動画の挿入やトラックバックなど、そのいくつかは発見されているとおりだ。紙には紙の、ウェブにはウェブの制限がある、ただそれだけのことだと最近は冷静に思えるようになった。
だが、たとえばとあるプログラミングの開発環境についてぎっしり分析した記事であるとか、不景気の紙媒体から取りこぼれた、コアな記事は一体どこに行けばいいのかという思いはある。かつての紙媒体が持っていたそういう偏執狂的な魅力は、今のウェブメディアには承継されていないように私には思うのだ。
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