2011年7月25日月曜日

大里俊晴 - 『ガセネタの荒野』




一言で言えば、唐突な再版だ。

著者・大里俊晴は、2009年11月17日に逝去した音楽学者である。本著は、彼の青春時代に活動していたバンド「ガセネタ」*1について綴ったもので、もともとは91年に洋泉社にて刊行されていたもので、著者の生前唯一の単著だ。内容は、浜野純・山崎春美という2人の天才に大里が圧倒され、加速し続けあらゆるものを削ぎ落とし続けた濃密な時間についての記録である。

私自身のプロフィールとも重なるが、大里氏は私の兄弟子であり、先生でもあった。かつて、知人から斯様な本を書いていることは知っていたが、あとがきに「古本屋のワゴンで10円で並んでいることを願う」*2というようなことを書いていらしいと聞いて、常々探していた。それが、渋谷タワレコに並んでいたのである。しかも新刊。まったく唐突といったらありゃしない。帰りの電車で恐ろしい勢いで読みふけり、最寄り駅のベンチに座ったまま一気に読破した。

感想を一言で言うなら、読まなけりゃ良かった、である。

内容がつまらないわけではない。破滅するしかなかった者たちの記録のようでもあり、そこから逃げ出した大里氏の後悔のようでもある。ガセネタの音楽を少しばかり聴いたことがあるが、そのあまりにも鋭い音は、本著での大里氏の切実な心情吐露*3とよく似た、刹那的な音だった。自殺的といおうか、あるいはチキンランのような、とでも言おうか。このようなものを誰が書ける? ここまで赤裸々な心情吐露をあけっぴろげにすることが誰にできる?

しかしそれだけに、なぜ今?という唐突感がぬぐえない。

ガセネタの音源が10枚組みBOXで発売されるからか? 死後、関係者によって大里の業績を世に残すためだったのか? そのいずれでもあり、いずれでもないのかもしれない。

だが、自分は山崎春美の題字による装丁など見たくなかった。死して2人は和解したとでも言うのか? 追悼文集*4の山崎の文章は、ほかの誰よりも美しかった。それはこう結ばれている。「ほんとうは二人で、ぼくと大里との二人で、見知った見知らぬ人たち、少女たち、女の子たちを、片っ端から犯すしかなかったんだ。ぜったい。それ以外に未来はなかった。(略)そしたら、ぼくもきみも浜野もみんな一緒にいられたのになあ。」 やっぱり破滅以外に道はなかった。だから、こんな幻滅はない。

本当は、「出会うべき者はいずれ会う」のであれば、それは唐突でもないのかもしれない。けれど、やっぱりそれは古本屋のワゴンで出会いたかった。1400円もの金を出して、彼らの過ごしたアングラの空気を追体験した気になるなんて、どれほど陳腐なことか。そんな疑念が払拭できずにいるし、一方でどんどん発行してもう歴史にしてしまえよ、とも思っている。

追悼文集を我が家のトイレにずっと置き続けているのが、せめてもの自分の弔い方だ。

<追記1>
7/26のDommuneにてガセネタ特集があり、山崎晴美が出演して、ガセネタの曲を歌ったという。山崎氏のパーソナリティは、下の脚注3と全く正反対で、自分がどのように見られるかなどに無頓着なのではないだろうか。

<追記2>
結局、ガセネタBOXを注文してしまった。さらに、ディスクユニオンの張り紙で今後「タコBOX」「大里俊晴BOX」も出るらしいことを知った。本文のように書いたが、もういっそうのこと、伝説から引きずり下ろしてしまえという気分に変わった。

*1 バンド名は頻繁に変わったという。「こたつに吠えろ」「て」など。
*2 あとがきを読んでみたが、そのような記述はなかった。また、とある女性に本書を捧げる、というようなことも書いてあったと聞いたが、その記述もない。再販にあたり、遺稿を元にしたとあったので、削られたのかもしれない。その理由は自分には知るべくもない。
*3 大里氏を語るときに、彼の自己滅却的な性格(シャイとも書かれている)が多く口にされるが、私の評価は逆だ。大里氏は根っからのロマンティストだ。自意識が過剰であるからこそ、自分を消し去ろうとするのだ。自分に無頓着なら、さらけ出された自分にどんな評価を下されようとも、まったく意に介さないはずである。
*4 一部書店やネット経由などで購入できると思う。こちらは題字がジム・オルーク。そんな風にサブカル著名人を引っ張り出してくる感覚には、どうもなじめない。

【リリース情報】MILES DAVIS QUINTET – LIVE IN EUROPE 1967: THE BOOTLEG SERIES VOL. 1



マイルスのボックスものと言えば、中山康樹が激しく批判するように、看板に偽りありの期待はずれのものが多かったが、今回のリリースはこれまでとちょっと異なるようだ。なにしろ、タイトルがBootlegである。しかもVol.1。はびこる海賊版の撲滅と、マイルスの音源を体系的にリリースすることを、ようやくカスクーナが自覚したと言うことか?(マイルスの遺族がいろいろと妨害になっていたという可能性もあるかもしれないが)。

内容は、第2期黄金クインテット(マイルス、ショーター、ハンコック、カーター、ウィリアムス)のヨーロッパでのライブを収録したもので、ラジオ音源から取られている様子。パリ公演もあるが、フランスの放送局は高いロイヤルティを要求する事で知られているため、いろいろと交渉も難航したであろう。ブートレッグとあるが、Disc 2のデンマーク公演は初出の様子。ともあれ、CD3枚組+DVDの収録曲は以下の通り。

MILES DAVIS QUINTET - LIVE IN EUROPE 1967: THE BOOTLEG SERIES VOL. 1
(Columbia/Legacy 8869794053 2)


CD One – Selections:
1. Agitation
2. Footprints
3. ’Round Midnight
4. No Blues
5. Riot
6. On Green Dolphin Street
7. Masqualero
8. Gingerbread Boy
9. Theme. (Recorded on October 28, 1967 at the Konigin Elizabethzaal, Antwerp, Belgium by Belgian Radio and Television [BRT].)


CD Two – Selections:
1. Agitation
2. Footprints
3. ’Round Midnight
4. No Blues
5. Masqualero
6. Agitation
7. Footprints. (Tracks 1-5 recorded on November 2, 1967 at the Tivoli Konsertsal, Copenhagen, Denmark by Danish Radio; tracks 6 & 7 recorded and broadcast on November 6, 1967 at the Paris Jazz Festival, Salle Pleyel, Paris, France on France Inter [ORTF]. Radio Program Producer: André Francis.)


CD Three – Selections:
1. ’Round Midnight
2. No Blues
3. Masqualero
4. I Fall In Love Too Easily
5. Riot
6. Walkin’
7. On Green Dolphin Street
8. The Theme. (Recorded and broadcast on November 6, 1967 at the Paris Jazz Festival, Salle Pleyel, Paris, France on France Inter [ORTF]. Radio Program Producer: André Francis.)


DVD – Selections:
1. Agitation
2. Footprints
3. I Fall In Love Too Easily
4. Gingerbread Boy
5. The Theme
6. Agitation
7. Footprints
8. ’Round Midnight
9. Gingerbread Boy
10. The Theme. (Tracks 1-6 recorded on November 7, 1967 at the Stadthalle, Karlsruhe, Germany by Südwestfunk TV; tracks 7-11 recorded on October 31, 1967 at the Konserthuset, Stockholm, Sweden by Sveriges Radio TV.)


オフィシャルなので、音質はある程度良いだといいが……気になるのは、収録曲の関係か、1公演1CDでまとめられていない点だが、その分、価格が安く抑えられることを期待したい(現在、アマゾンで6000円強)。また、抜粋盤のCDも発売されるようだ。

http://www.milesdavis.com/us/news/miles-davis-quintet-live-europe-1967-bootleg-series-vol-1


HMVのサイトが詳しく内容を書いている。
http://www.hmv.co.jp/news/article/1107220061/

<追記>
マイルスのオフィシャルサイトでも販売をしている。日本へは送料合わせて4000円程度。アマゾンでもそのぐらいで売られていた時期もあったので、リリースまで値段を見て、どちらか安いほうで買うといいと思う。

You'd better to buy it from official store, because it is the most cheepest. But ocassionary it is also cheep from amazon. Choose carefully.

Je vous conseille d'acheter par le site officiel, parce qu'il est moins cher que les autres. Mais de temps en temps on peut en acheter par amazon moins cher que le site officiel. Choisissez attentivement.

Tord Gustavsen Trio - The Ground



「亡国ピアノトリオ」なんて物騒な言葉を唱える批評家もいるが、ジャズの世界で依然としてピアノトリオは人気がある。とかく素材そのものを楽しむ日本人にとっては、絢爛豪華なスイングジャズのビッグバンドよりも、簡素なトリオ編成のほうが好みかもしれない。

ところで、私は寝る前に音楽をかけるのを習慣にしているが(とはいえど、最近は鬱病で音楽を聴きたいという気持ちが減じているが)、同居人がその音楽に対して頻繁に文句を付ける。私自身は、それがフリージャズであろうが何だろうが眠れるのだが、同居人はテンポの速い曲は目が冴えてしまうと言う。同居人はメロディよりもリズムを感じるタイプの人間なのでそのせいもあるだろうが、寝ることを考えるともう少しテンポが遅いリラックスできる音楽の方が良いのかもしれない。

同居人の愛聴盤はBill Evansの「From left to right」であるが、よくよく考えてみるとジャズの名盤の中に、これほどゆったりしたテンポを基調とした静謐な音楽は、実は少ない。Jim HallとRon Carterの「Alone Together」ぐらいか? でもあちらは別にバラードアルバムというわけでもない。ということで、何か良いものは無いかとネットで調べてみたのだが、灯台下暗しとはまさにこのこと、うちにいくつもあるECM盤のピアノトリオがなかなかであった(亡国ピアノトリオの代名詞だ!)。

昨日、聴いてみたノルウェーのTord Gustavsen Trio「The ground」は、あたかも良質のピアノ小品にベースとドラムを付けたかのような趣。ハードバップ的なコンピングの代わりに、メロディを彩る対位的な音が入る。こういう音はジャズの本場の米国人には出せないだろう。アドリブ至上主義の批評家には受けが悪いだろうが、私のようにジャズを実際に演奏する側から見ると、ビバップからこれだけ離れてスイングしないジャズを演奏することは、ものすごい発明に思うのである。

スイングとは一種の麻薬で、一度はまると抜け出せない。初学者のころは、バラードを弾いていてもどうしてもスイングしてしまう。そのほうがノリが出せて、演奏しやすいからだ。スイングによるアウフタクトの魅力は、ジャズのセントラルドグマと言ってもいいくらいだ。でも、そこから離れて、クラシック音楽のようなスタイルを生み出したヨーロッパのミュージシャンのセンスは、アメリカ生まれの音楽を他国で演奏することの意義を我々に教えてくれる。

過剰にジャズがムード音楽化することに私も違和感を覚える一人であるが、音楽家は自分の音楽を演奏するのみ。リスナーは聴きたい音楽を聴くのみである。




2011年7月12日火曜日

検閲とメディア あるいは組織への個人の責任転嫁



もはや昨今の政局など、コメディでしかないのだが、それにしても松本ドラゴンの一件は、マスメディアのタブーを(ごく一部に)知らしめたという意味で、非常に面白かった。この一件自体はググって調べていただきたいが、知らない人に要点をかいつまんで言うと、復興担当相が宮城県知事を恫喝した一部始終を撮影していたにもかかわらず、「放送するな」というドラゴンの同和団体の圧力を楯にした脅しに、簡単にマスコミはいいなりになってしまったが、東北放送のみが放映し、ネットで広まるやいなや、他のマスコミも一斉に騒ぎ出したという一件。


これだけだと、マスゴミは権力に簡単になびくんだ、と言いたくなるだろう。だが、自分の見方はもうちょっと違って、なびくと言うより、もはや思考停止なんだと思う。なぜ、そう思うかって? 自分自身もそういう体験があるから。


それは、前職の某音楽雑誌の編集作業中のこと。先輩である30後半の女性編集部員が突如口を挟んできた。


「この黒人やニガーという言葉はね、ちょっとね~~~」


勘の良い人は、どのアーティストか分かると思うが、黒人アーティスト自身の発言にニガーという言葉があるのである。それが差別の意図を持っているかどうか、明らかであろう。しかし、彼女はこう主張するのである。曰く、その手の団体の人から抗議が来るから、小学館などの大手はこう言う言葉は校正で消されるから。


一応ツッコミを入れておくと、大手出版社でもそのような統一ルールはないし、平気で黒人やニガーという言葉は使っている。そのような事を抜きにしても、まさに彼女の考えは思考停止である。世の中のルールがそうだから、それに従わないと、というものである。


専門用語を使わせてもらうと、アメリカではこのような適切ではない言葉を指す「ポリティカリーコレクトネス(PC)」という用語がある。例を挙げれば、BlackではなくAfro American、BlindやDeafではなくHandicaped personと呼ぶ、など。


個別に見ればそのような言い換えに様々な背景があったのだろうと思うが、基本的にそれを履行する側は完全に思考停止である。件の先輩編集者と同じ、先例主義・ことなかれ主義である。ちなみに彼女は、アーティスト自身が語った宗教の話などにも口を突っ込んできたりした。


某乙武氏は差別語を止めて差別を隠蔽するより、差別語を堂々と言われた方がいいと発言して、ツイッターでちょっと議論が起きていたが、自分の考えも同じである。言葉そのものよりも、文脈やその背景にある意図が問題だし、そこに悪意があったとしても、反証可能性が用意されているなら、マスメディアとして隠蔽すべきではないはずだ。


だが、ココが情けないところなのだが、その当時の自分は、そんな風に言ってくる先輩編集者にある程度反論は試みたものの、小学館や講談社はそうしない、などというコンプレックス丸出し(彼女は編集/ライタースクール出身である)の発言を続けるばかりの彼女と言い争いをしても面倒なので、そういうならそうしておけばいいや、と思ったのである。


なんのことはない、自分も思考停止である。


ココで終わってしまうと情けないオチなので少し付言するが、こういった組織の中で行われる犯罪行為と個人の罪悪感を調べる実験に、囚人に電気ショックを与える実験(実は与える方が治験者)がある。ナチスの組織犯罪の裏にある心理的背景を探る試みの一つであったのだが、結果は皆さんの予想通り、責任を組織に転嫁できる限り、個人は罪悪感を持たないのであった。独立した個人の倫理観や価値観を多様に表現しきれないほど、マスコミもメディア媒体も、少々大きくなりすぎたのかもしれない。


補遺:


最近私が構想している仮説に、日本は組織を高度に発展させることで、個人の責任を組織に転嫁して、個人がある程度動きやすい体制を作ったが、同時に個人の責任が不明瞭になったため、誰も責任を取らないようになった、というものがある。本当に西洋の組織には個人主義が存在しているのか、という反証も必要だが、とりあえず気になるのは、なぜ日本が無責任体質になったかということで、その原因の一つは非論理的な社会ルールが有るのではないかと思っている。ルールが明確ではない中で、個人は自己の責任において決断を下すことは難しい。近代においても、現代においても、日本人はそれこそ「空気を読む」ことを求められて、明確なルールで動くと言うことを怠ってきた。空気を読むことを求めてきたにも理由があるのだろうが、グローバルな場面でことごとく日本人が失敗を犯すのは、このルールの不明確性に基づいた行動にあるのではないだろうか。





2011年7月10日日曜日

精神科医療と薬物療法

興味のない人にはどうでもいい、もしくは耳にも入れたくないという人もいる話であるが、私は精神科(心療内科)の受診者である。断続的に通院していたが、ここ半年ばかり会社の仕事環境の変化もあり、大幅に具合を悪くし、2週間ほど寝っぱなしで通勤できないと言うことが2度ほどあった。そういうわけで、1ヶ月ほど前からまた本格的に通院を始めた。

この精神科治療であるが、受診していない人が端から見ると、実に心許ない治療なのである。次から次へといろんな薬を投与しては変え、投与しては変え……薬の効果を試しているだけじゃないか? 本当に分かって治療しているのか? とそう見えてしまう。しかし、それも仕方がない面が治療にはある。

というのも、精神科の治療は、外科や内科のように、何らかの検査をして、値を見て、薬を投与……という手続きは踏まないのである。精神的な疾患は主に脳内分泌物(たとえばセロトニンやら)の異常から来ると言われているが、これを計測することは不可能だからである(本当に不可能ではないかもしれないが、頭を開いて脳から物質を摂取とはおいそれと出来ないだろう)。

よって、精神科の治療は患者から様子を聴いて、その症状を判断し、それにあった薬を投与し、また様子を聴いて、という繰り返しになる。これは精神科を知らない人には、非常にうさんくさく感じられるだろう。実際、同居人は、もともと精神科に胡散臭い目をしていたこともあり(医療従事者のくせに!)、症状がすぐに良くならないのに薬が増えたりするのを見て、その医者は良くないのでは? 変えるべきでは? などと言い出した。

たしかに、受診している医師は薬物療法を全面的に信頼しすぎている面もあり、以前は胡散臭いと思ったこともあったが、今ではきわめてオーソドックスな診療ではないかと思っている(今後、再度その印象が変わることはあり得るが)。その印象を変えたのは、とあるブログがきっかけだったが、その話は後に回し、胡散臭く思いだした話を先にしよう。

あることをきっかけに抑鬱症状を自覚するようになり、通院するようになってしばらくした頃、とある人からラカン派の精神分析治療ができる医師を紹介してもらったことがある。そこに何回か通院したのだが、処方される薬は極々弱い薬のみ、薬の効果を尋ねるわけでもなく、ややカウンセリングになりがちだった数回の診察の後、その医師が下した診断は、君は鬱じゃないでしょ、ということだった(様に思う。というのも、ハッキリ口にしたわけではなかったから)。つまり、はやりの詐病と思われたのだと思う。

これには、なんとなく自分もそうなのかな?と思ってしまった。というのも、気分が落ち込むのも、気分が落ち込みたいと思うから落ち込んでいるのでは、という気がしなくもなかったからである。自分が明るくなろう、と思えば明るくなるのではないか、外科的に傷の縫合が必要というのではなく、気合いで何とかなってしまうのではないか、と思わせるものが精神医療にはある。

だが、結果的に現在のような有様なので、詐病というのは間違い、あるいは自分の受け取り方に間違いがあったのであろう(ただ、その医師は、もう来てくれるなよ、という態度であったが)。ただ、そのことがあり、薬物のみに頼る方法というのは、本当に正しいのだろうかという疑念が湧いたのである。

だが、ふとしたきっかけで、現役の精神科医師が書いていると思われるブログを見つけ、それを読みふけることで印象が変わった。そのブログに書かれている症例や薬の話は、実に多岐かつ多量である。数ある症例を見ていくうちに、薬が有効に作用するのは漠然ながらも理由付けがあるらしいことと、試行錯誤の上で回復する例が多数有ることから、薬物療法の有効性は、100%ではないにしろ、有ると言わざるを得ないと確信するようになった(現に件のラカン派の医師も薬物を併用している)。

なお自分は、精神分析を否定するわけではないし*1、アメリカで盛んなカウンセリングも一種の精神分析だと思うので、それで治るに越したことはないと思っている。しかし、それで治らないと言う人のために、薬物療法はあっていいはずだ。……と書くと消極的だが*2、いまは再び薬物療法にきちんと向き合ってみようと思っている。これまで、途中でもういいだろうと思って辞めてしまっているのが、結局良くなかったのだろうから。

*1:とはいえど、かなり懐疑的にはなっている。自分はラカンについて書いた本をいくつか読んだが、どれも十分に理解できない。哲学や思想は本来は理解不能なものであるが(別に難解さを強調したいわけでもなく、不可能性の糾弾にこそ意味があると思っているので)、それにしても分からない。と思っていたら、このような記事を見つけた。かなり納得できる内容である。http://psychodoc.eek.jp/abare/analysis2.html
*2:薬物への依存性副作用がかえって症状を悪くすることもあり得るために自分はそう考えている。これは周囲の友人で長く病気を患い回復していない人間が複数いることからであるが、本人の気質にも原因はあるだろう。

2011年2月7日月曜日

レッドと連合赤軍と非実在青少年



先週の木曜、山本直樹さんに誘われ『レッド』文化賞メディア芸術祭特別賞報告会というパーティに行ってきた。パーティの様子はツイートで少しばかり書いているし、Facebookで動画も上げているので、ここでは書かない。


この受賞は次の2つの意味で非常に象徴的な出来事であった。


1つは、ほとんどノンフィクションと言っていいこの漫画が、連合赤軍の話を題材にしつつ、国から表彰されたと言うこと。そして、会場である赤坂のフーターズ(まさに米国の象徴ではないか?)ではその元連合赤軍メンバーが集まり、国からのカンパで飲み食いをしていたという事実。そしてそのわずか2日後に永田洋子が死んだのだ。連合赤軍事件は一つの歴史として、一区切りを着けたということだろう。


ところで、事件の原因はあらゆるメディアにあらゆる形で書き連られてきたが、実際にはある種のタブーとして、あるいは特異な例外として、一般には消極的・積極的に無視されてきた感がある。元連合赤軍メンバー達は、renseki.netという事件を風化させないための活動をしているそうだが、『レッド』の様な漫画が余に受け入れられたことを経て、事件は歴史としてあるいは次世代への教訓として、いま再考証され、受け入れられるべき時期に来たのではないだろうかと思う。


もう1つは、山本直樹というわずか2年前に東京都から有害図書規制を受けた作家が、ここで見事に賞を受賞しているという事実である。それは痛快であると共に、いったいあの都条例の規制は何だったのかと思わざるを得ない。私自身としては、規制自体に反対ではないのだが、規制派も反対派も誰もが追求しようとしなかった、ごくごくシンプルな疑問、「エロ漫画を規制したら性犯罪が減るのか?」ということを、誰もまじめに深く追求しようとしていなかったことを訝しく思っている。


もしこれが、一般企業だとしたら、「エロ漫画で性犯罪が増えているという定量的なデータはあるのか」「規制にはどの程度のコストがかかり、どれだけの性犯罪が減るのか」「規制後にどのようにしてその効果を計測するのか」という論証が不可欠のはずだ。規制派も反対派もそこを十分に(少しは言っているようだが)突っ込もうとしないのは、実におかしな話である。実は規制はのみならず反対派にも、暗黙のコンセンサスとして「過激なエロ漫画が性犯罪の原因になる可能性は否定できない」というものがあったのではないだろうか。規制派はその可能性だけで規制する理由として十分だという本音を、「あなたはこの漫画を自分の子供に見せられますか!?」といった感情的な言葉にうまく置き換え、反対派はその言い訳よろしく、「表現の自由」「親の責任」「なぜ漫画だけ」だの言い続けてきたことが、規制派を押さえることが出来なかった原因だと、私は思っている。


反対派が本当にすべきだったのは、コストと効果の問題を定量的に提示させることのはずであり、無いものは証明できないので、規制と犯罪低減の効果に関するデータの証明責任は都の側にあったはずだ。都はおそらくコストすら具体的に提示できなかっただろう。逆に、都も本当に性犯罪を減らしたいと思うのなら、定量的データをしっかり見せれば、反対派も納得せざるを得なかったはずだ。


だいたい、これだけの討論や会議に費やしたコスト、出版社の離反によるとのイベントの凋落など、いくらコストがかかってるか、分かっているのだろうか。それで、「これだけかかってこれだけ犯罪が減りました」と言えないとするなら、まさに税金の無駄遣いである。単に規制のみが目的にしか見えず、目的と手段を混同しているとしか思えない。本当に性犯罪の低減を目指すなら、本当に規制で性犯罪が減るなら、映画もアダルトビデオも小説も、あらゆる表現媒体に規制を設けるべきである。それをしないのは、石原慎太郎をはじめとする老人達が「漫画は低俗」と思っていることに他ならない。





2010年5月16日日曜日

いまさら『電子書籍の衝撃』について書いてみる


もう発売からだいぶ経っているのに、今更ブログに書くのはいささか気が引けるが、『電子書籍の衝撃』について。

この本に書かれている内容は、大筋では同意である。電子書籍が普及するために必要な3つの要素については異論がない。少し違う意見があるとすれば、佐々木氏はソーシャルメディアの価値を高く評価しているようだが、自分はそうは思わないと言うところか。

はやり廃りの多いネットサービスにあって、著者が自分を表現するソーシャルメディアが長続きするかは、自分には疑問だ。メディアが違えばそこで必要とされる自己プレゼン能力は微妙に異なると思うし、その差違を著者たちは本当にうまく使いこなせるか、という問題もある。佐々木氏自身も「ソーシャルデバイド」という言葉を書いている通り、ハードルは低くはないと思う。それに、本来的には著者の活動や作品の質とはあまり関係ない話ではないか。

ただ、もし佐々木氏が想像するようなソーシャルデバイドが存在する未来がやってくるなら、プロモーションを代行する人が介在する余地も以前として残り続ける事になるような気がする。

多少の異論はあっても、大筋では同意させられたのだが……以下は些末な指摘として受け止められる可能性も多いことを承知で書くが、編集としてはがっかりさせられる点が多かった。著者の佐々木氏が悪いと言うことではない。編集側が対処すべき問題なのだ。箇条書きにして書くと、

1)事実確認の問題
2)引用の問題
3)用語や表記の問題、日本語の問題

が存在する。これらの点はさらっと読み流しても感じられるのだから、編集も本当は気になっていたはずではないか? 文芸書ではないのだから、これらの点は編集が著者に確認すべきではないだろうか。それをしていないことが編集を軽んじているように感じられて、悲しくなった。電子書籍時代にはこういう本が増えて行くのだろうか……。以下、具体的に見て行こう。


1)事実確認の問題

この本に書かれているいくつかの事項は、私には事実かどうか疑わしく感じられる。また、説明が不足しているために、疑問を捨て去ることが出来ない。

たとえば、iTunes Music Storeの成功がメジャーレーベルの凋落を招いたとあるが、これを裏付ける証拠は本文中には出てこない。もちろん、話の本筋から見れば傍流である。しかし、大多数の合意を形成できるほど知られた事実でもないなら、その証拠をきちんと提示するのが筋ではないか。特に、その事実を元にして出版界の未来を語るというのならば。

同様の問題が電子書籍コンソーシアムの失敗について書いた部分にもある。どの出版社も著者に電子化の許諾を取っていなかった、ということは分かるが、許諾交渉をコンソーシアムが薦めようとしても、各出版社で事情が違いすぎて頓挫した、と言うあたりが分からない。どういう事情があって、統一的にできなかったのか、具体的な例がなければ、客観的に不可能だったということを読む側としては納得できない。端折られたように感じてしまった部分である。

また、アマゾンは電子ブックの売り上げでは損をして、キンドルで売上を上げているとあるが、本当にそうだろうか? アマゾンはキンドルの売上でも損をしているように感じる。3G通信代などがそうだ。もし本当に損をしているというのなら、事業モデルとして端末の売上で儲けるように見えるが、そうなのだろうか?? 何らかの客観的なデータが欲しい。


2)引用の問題

数々の引用をつなぎ合わせて、1つのストーリーを作っていく様が、この本を読んでいてワクワクさせられる点であるのだが、牽強付会な引用が散見されるように自分には感じられた。

たとえば、原雅明というジャズ評論家の文章を引用して、コンテンツの「アンビエント」化の意味を物語っているのだが、原氏の言葉「もっと大きなサウンド」の引用の前後が切り取られてしまい、意味が分からなくなってしまっている。結局このもっと大きなサウンドとは何だったのだろう? そしてそれは本当に佐々木氏のいう「アンビエント」を補強するものだったのだろうか。ついでに言うと、アンビエントというのも、あまりにも定義が曖昧すぎて、よく分からないのである。クラウドと何が違うのか?

そのほか、ブログなどの引用が多いが、まるでその意見が大多数であるかのように引用するが、ほんとうにそうかー?と言うのも多い。エディットミュージックマニアの話もそうだが、仲間内の符牒だけで話すマニアは昔からいたし、今も昔も少数派だ。あと、ブログのエントリーがいつのものかというのもきちんと書いて欲しい。


3)用語や表記の問題、日本語の問題

そのほか、妙な表現や用語・表記の問題もある。些末なので読む人にはどうでもいいかもしれないが、編集者的にはとても気になる。

たとえば、iPadの説明をするのに「伝説のデバイス」と形容しているのだが、発売していないのに伝説とはなんだろうか。伝説とは起こった出来事が後の世に語られるようになるという言葉であるからして、おかしく感じられないだろうか? 発売される前から伝説になることが予想された、といった言い方なら分かるのだが。

エコシステムという言葉も気になる。生態系と言いたいならば英語にしたらエコロジーではないか。そもそも、この言葉も比喩なのだから、こういう造語っぽい言葉を使う意味はあるのだろうか。

「『ボクノタメニナイテクレ』というブログは、こういうエントリーを書いている。」と文中にあるが、ブログがエントリーを書くのではなく、作者がエントリーを書くのだから、これは日本語としておかしい。普通の編集者ならこれを校正するはずなのだが……。

統一表記も妙だ。「ロキシー・ミュージック」なのに「ピンクフロイド」「キングクリムゾン」。中黒はどういう規則になっているのだろう?

ポップパンクグループ、と何かのバンドの紹介にあったが、ポップパンクというジャンルを初めて聞いた。エディットミュージックも同様。また、まつきあゆむ紹介のところにある、「エッジの効いたサウンド」というのは何を意味しているのか? なにかのエッジが効いているというのは、どういう意味か? 全体的に、佐々木氏は音楽に対して使っている形容詞・用語が微妙におかしい。自分は音楽雑誌の編集をしていたのでよく分かるが、こういう形容をミュージシャンは露骨にいやがるので、普通は使わないものである。

以上、些末だったのだが、異論を語るにも、同意を語るにも、読んで損はないと思う。ぜひ、佐野眞一あたりにも同様の書籍を書いてもらいたいものだ(かつてはデスクトップの概念すら理解できなかったと言うが……)。

クリムゾンのニューアルバム?「The Reconstrukction of Light」

クリムゾンが現行ラインナップでスタジオアルバムを作る予定はないと発言していることは有名だが、クリムゾンの最新スタジオアルバムと言えるかもしれない作品が登場した。それが6月発売されたばかりの「The Reconstrucktion of Light」だ。これは「The Constr...