もはや昨今の政局など、コメディでしかないのだが、それにしても松本ドラゴンの一件は、マスメディアのタブーを(ごく一部に)知らしめたという意味で、非常に面白かった。この一件自体はググって調べていただきたいが、知らない人に要点をかいつまんで言うと、復興担当相が宮城県知事を恫喝した一部始終を撮影していたにもかかわらず、「放送するな」というドラゴンの同和団体の圧力を楯にした脅しに、簡単にマスコミはいいなりになってしまったが、東北放送のみが放映し、ネットで広まるやいなや、他のマスコミも一斉に騒ぎ出したという一件。
これだけだと、マスゴミは権力に簡単になびくんだ、と言いたくなるだろう。だが、自分の見方はもうちょっと違って、なびくと言うより、もはや思考停止なんだと思う。なぜ、そう思うかって? 自分自身もそういう体験があるから。
それは、前職の某音楽雑誌の編集作業中のこと。先輩である30後半の女性編集部員が突如口を挟んできた。
「この黒人やニガーという言葉はね、ちょっとね~~~」
勘の良い人は、どのアーティストか分かると思うが、黒人アーティスト自身の発言にニガーという言葉があるのである。それが差別の意図を持っているかどうか、明らかであろう。しかし、彼女はこう主張するのである。曰く、その手の団体の人から抗議が来るから、小学館などの大手はこう言う言葉は校正で消されるから。
一応ツッコミを入れておくと、大手出版社でもそのような統一ルールはないし、平気で黒人やニガーという言葉は使っている。そのような事を抜きにしても、まさに彼女の考えは思考停止である。世の中のルールがそうだから、それに従わないと、というものである。
専門用語を使わせてもらうと、アメリカではこのような適切ではない言葉を指す「ポリティカリーコレクトネス(PC)」という用語がある。例を挙げれば、BlackではなくAfro American、BlindやDeafではなくHandicaped personと呼ぶ、など。
個別に見ればそのような言い換えに様々な背景があったのだろうと思うが、基本的にそれを履行する側は完全に思考停止である。件の先輩編集者と同じ、先例主義・ことなかれ主義である。ちなみに彼女は、アーティスト自身が語った宗教の話などにも口を突っ込んできたりした。
某乙武氏は差別語を止めて差別を隠蔽するより、差別語を堂々と言われた方がいいと発言して、ツイッターでちょっと議論が起きていたが、自分の考えも同じである。言葉そのものよりも、文脈やその背景にある意図が問題だし、そこに悪意があったとしても、反証可能性が用意されているなら、マスメディアとして隠蔽すべきではないはずだ。
だが、ココが情けないところなのだが、その当時の自分は、そんな風に言ってくる先輩編集者にある程度反論は試みたものの、小学館や講談社はそうしない、などというコンプレックス丸出し(彼女は編集/ライタースクール出身である)の発言を続けるばかりの彼女と言い争いをしても面倒なので、そういうならそうしておけばいいや、と思ったのである。
なんのことはない、自分も思考停止である。
ココで終わってしまうと情けないオチなので少し付言するが、こういった組織の中で行われる犯罪行為と個人の罪悪感を調べる実験に、囚人に電気ショックを与える実験(実は与える方が治験者)がある。ナチスの組織犯罪の裏にある心理的背景を探る試みの一つであったのだが、結果は皆さんの予想通り、責任を組織に転嫁できる限り、個人は罪悪感を持たないのであった。独立した個人の倫理観や価値観を多様に表現しきれないほど、マスコミもメディア媒体も、少々大きくなりすぎたのかもしれない。
補遺:
最近私が構想している仮説に、日本は組織を高度に発展させることで、個人の責任を組織に転嫁して、個人がある程度動きやすい体制を作ったが、同時に個人の責任が不明瞭になったため、誰も責任を取らないようになった、というものがある。本当に西洋の組織には個人主義が存在しているのか、という反証も必要だが、とりあえず気になるのは、なぜ日本が無責任体質になったかということで、その原因の一つは非論理的な社会ルールが有るのではないかと思っている。ルールが明確ではない中で、個人は自己の責任において決断を下すことは難しい。近代においても、現代においても、日本人はそれこそ「空気を読む」ことを求められて、明確なルールで動くと言うことを怠ってきた。空気を読むことを求めてきたにも理由があるのだろうが、グローバルな場面でことごとく日本人が失敗を犯すのは、このルールの不明確性に基づいた行動にあるのではないだろうか。
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