2011年7月12日火曜日

検閲とメディア あるいは組織への個人の責任転嫁



もはや昨今の政局など、コメディでしかないのだが、それにしても松本ドラゴンの一件は、マスメディアのタブーを(ごく一部に)知らしめたという意味で、非常に面白かった。この一件自体はググって調べていただきたいが、知らない人に要点をかいつまんで言うと、復興担当相が宮城県知事を恫喝した一部始終を撮影していたにもかかわらず、「放送するな」というドラゴンの同和団体の圧力を楯にした脅しに、簡単にマスコミはいいなりになってしまったが、東北放送のみが放映し、ネットで広まるやいなや、他のマスコミも一斉に騒ぎ出したという一件。


これだけだと、マスゴミは権力に簡単になびくんだ、と言いたくなるだろう。だが、自分の見方はもうちょっと違って、なびくと言うより、もはや思考停止なんだと思う。なぜ、そう思うかって? 自分自身もそういう体験があるから。


それは、前職の某音楽雑誌の編集作業中のこと。先輩である30後半の女性編集部員が突如口を挟んできた。


「この黒人やニガーという言葉はね、ちょっとね~~~」


勘の良い人は、どのアーティストか分かると思うが、黒人アーティスト自身の発言にニガーという言葉があるのである。それが差別の意図を持っているかどうか、明らかであろう。しかし、彼女はこう主張するのである。曰く、その手の団体の人から抗議が来るから、小学館などの大手はこう言う言葉は校正で消されるから。


一応ツッコミを入れておくと、大手出版社でもそのような統一ルールはないし、平気で黒人やニガーという言葉は使っている。そのような事を抜きにしても、まさに彼女の考えは思考停止である。世の中のルールがそうだから、それに従わないと、というものである。


専門用語を使わせてもらうと、アメリカではこのような適切ではない言葉を指す「ポリティカリーコレクトネス(PC)」という用語がある。例を挙げれば、BlackではなくAfro American、BlindやDeafではなくHandicaped personと呼ぶ、など。


個別に見ればそのような言い換えに様々な背景があったのだろうと思うが、基本的にそれを履行する側は完全に思考停止である。件の先輩編集者と同じ、先例主義・ことなかれ主義である。ちなみに彼女は、アーティスト自身が語った宗教の話などにも口を突っ込んできたりした。


某乙武氏は差別語を止めて差別を隠蔽するより、差別語を堂々と言われた方がいいと発言して、ツイッターでちょっと議論が起きていたが、自分の考えも同じである。言葉そのものよりも、文脈やその背景にある意図が問題だし、そこに悪意があったとしても、反証可能性が用意されているなら、マスメディアとして隠蔽すべきではないはずだ。


だが、ココが情けないところなのだが、その当時の自分は、そんな風に言ってくる先輩編集者にある程度反論は試みたものの、小学館や講談社はそうしない、などというコンプレックス丸出し(彼女は編集/ライタースクール出身である)の発言を続けるばかりの彼女と言い争いをしても面倒なので、そういうならそうしておけばいいや、と思ったのである。


なんのことはない、自分も思考停止である。


ココで終わってしまうと情けないオチなので少し付言するが、こういった組織の中で行われる犯罪行為と個人の罪悪感を調べる実験に、囚人に電気ショックを与える実験(実は与える方が治験者)がある。ナチスの組織犯罪の裏にある心理的背景を探る試みの一つであったのだが、結果は皆さんの予想通り、責任を組織に転嫁できる限り、個人は罪悪感を持たないのであった。独立した個人の倫理観や価値観を多様に表現しきれないほど、マスコミもメディア媒体も、少々大きくなりすぎたのかもしれない。


補遺:


最近私が構想している仮説に、日本は組織を高度に発展させることで、個人の責任を組織に転嫁して、個人がある程度動きやすい体制を作ったが、同時に個人の責任が不明瞭になったため、誰も責任を取らないようになった、というものがある。本当に西洋の組織には個人主義が存在しているのか、という反証も必要だが、とりあえず気になるのは、なぜ日本が無責任体質になったかということで、その原因の一つは非論理的な社会ルールが有るのではないかと思っている。ルールが明確ではない中で、個人は自己の責任において決断を下すことは難しい。近代においても、現代においても、日本人はそれこそ「空気を読む」ことを求められて、明確なルールで動くと言うことを怠ってきた。空気を読むことを求めてきたにも理由があるのだろうが、グローバルな場面でことごとく日本人が失敗を犯すのは、このルールの不明確性に基づいた行動にあるのではないだろうか。





2011年7月10日日曜日

精神科医療と薬物療法

興味のない人にはどうでもいい、もしくは耳にも入れたくないという人もいる話であるが、私は精神科(心療内科)の受診者である。断続的に通院していたが、ここ半年ばかり会社の仕事環境の変化もあり、大幅に具合を悪くし、2週間ほど寝っぱなしで通勤できないと言うことが2度ほどあった。そういうわけで、1ヶ月ほど前からまた本格的に通院を始めた。

この精神科治療であるが、受診していない人が端から見ると、実に心許ない治療なのである。次から次へといろんな薬を投与しては変え、投与しては変え……薬の効果を試しているだけじゃないか? 本当に分かって治療しているのか? とそう見えてしまう。しかし、それも仕方がない面が治療にはある。

というのも、精神科の治療は、外科や内科のように、何らかの検査をして、値を見て、薬を投与……という手続きは踏まないのである。精神的な疾患は主に脳内分泌物(たとえばセロトニンやら)の異常から来ると言われているが、これを計測することは不可能だからである(本当に不可能ではないかもしれないが、頭を開いて脳から物質を摂取とはおいそれと出来ないだろう)。

よって、精神科の治療は患者から様子を聴いて、その症状を判断し、それにあった薬を投与し、また様子を聴いて、という繰り返しになる。これは精神科を知らない人には、非常にうさんくさく感じられるだろう。実際、同居人は、もともと精神科に胡散臭い目をしていたこともあり(医療従事者のくせに!)、症状がすぐに良くならないのに薬が増えたりするのを見て、その医者は良くないのでは? 変えるべきでは? などと言い出した。

たしかに、受診している医師は薬物療法を全面的に信頼しすぎている面もあり、以前は胡散臭いと思ったこともあったが、今ではきわめてオーソドックスな診療ではないかと思っている(今後、再度その印象が変わることはあり得るが)。その印象を変えたのは、とあるブログがきっかけだったが、その話は後に回し、胡散臭く思いだした話を先にしよう。

あることをきっかけに抑鬱症状を自覚するようになり、通院するようになってしばらくした頃、とある人からラカン派の精神分析治療ができる医師を紹介してもらったことがある。そこに何回か通院したのだが、処方される薬は極々弱い薬のみ、薬の効果を尋ねるわけでもなく、ややカウンセリングになりがちだった数回の診察の後、その医師が下した診断は、君は鬱じゃないでしょ、ということだった(様に思う。というのも、ハッキリ口にしたわけではなかったから)。つまり、はやりの詐病と思われたのだと思う。

これには、なんとなく自分もそうなのかな?と思ってしまった。というのも、気分が落ち込むのも、気分が落ち込みたいと思うから落ち込んでいるのでは、という気がしなくもなかったからである。自分が明るくなろう、と思えば明るくなるのではないか、外科的に傷の縫合が必要というのではなく、気合いで何とかなってしまうのではないか、と思わせるものが精神医療にはある。

だが、結果的に現在のような有様なので、詐病というのは間違い、あるいは自分の受け取り方に間違いがあったのであろう(ただ、その医師は、もう来てくれるなよ、という態度であったが)。ただ、そのことがあり、薬物のみに頼る方法というのは、本当に正しいのだろうかという疑念が湧いたのである。

だが、ふとしたきっかけで、現役の精神科医師が書いていると思われるブログを見つけ、それを読みふけることで印象が変わった。そのブログに書かれている症例や薬の話は、実に多岐かつ多量である。数ある症例を見ていくうちに、薬が有効に作用するのは漠然ながらも理由付けがあるらしいことと、試行錯誤の上で回復する例が多数有ることから、薬物療法の有効性は、100%ではないにしろ、有ると言わざるを得ないと確信するようになった(現に件のラカン派の医師も薬物を併用している)。

なお自分は、精神分析を否定するわけではないし*1、アメリカで盛んなカウンセリングも一種の精神分析だと思うので、それで治るに越したことはないと思っている。しかし、それで治らないと言う人のために、薬物療法はあっていいはずだ。……と書くと消極的だが*2、いまは再び薬物療法にきちんと向き合ってみようと思っている。これまで、途中でもういいだろうと思って辞めてしまっているのが、結局良くなかったのだろうから。

*1:とはいえど、かなり懐疑的にはなっている。自分はラカンについて書いた本をいくつか読んだが、どれも十分に理解できない。哲学や思想は本来は理解不能なものであるが(別に難解さを強調したいわけでもなく、不可能性の糾弾にこそ意味があると思っているので)、それにしても分からない。と思っていたら、このような記事を見つけた。かなり納得できる内容である。http://psychodoc.eek.jp/abare/analysis2.html
*2:薬物への依存性副作用がかえって症状を悪くすることもあり得るために自分はそう考えている。これは周囲の友人で長く病気を患い回復していない人間が複数いることからであるが、本人の気質にも原因はあるだろう。

2011年2月7日月曜日

レッドと連合赤軍と非実在青少年



先週の木曜、山本直樹さんに誘われ『レッド』文化賞メディア芸術祭特別賞報告会というパーティに行ってきた。パーティの様子はツイートで少しばかり書いているし、Facebookで動画も上げているので、ここでは書かない。


この受賞は次の2つの意味で非常に象徴的な出来事であった。


1つは、ほとんどノンフィクションと言っていいこの漫画が、連合赤軍の話を題材にしつつ、国から表彰されたと言うこと。そして、会場である赤坂のフーターズ(まさに米国の象徴ではないか?)ではその元連合赤軍メンバーが集まり、国からのカンパで飲み食いをしていたという事実。そしてそのわずか2日後に永田洋子が死んだのだ。連合赤軍事件は一つの歴史として、一区切りを着けたということだろう。


ところで、事件の原因はあらゆるメディアにあらゆる形で書き連られてきたが、実際にはある種のタブーとして、あるいは特異な例外として、一般には消極的・積極的に無視されてきた感がある。元連合赤軍メンバー達は、renseki.netという事件を風化させないための活動をしているそうだが、『レッド』の様な漫画が余に受け入れられたことを経て、事件は歴史としてあるいは次世代への教訓として、いま再考証され、受け入れられるべき時期に来たのではないだろうかと思う。


もう1つは、山本直樹というわずか2年前に東京都から有害図書規制を受けた作家が、ここで見事に賞を受賞しているという事実である。それは痛快であると共に、いったいあの都条例の規制は何だったのかと思わざるを得ない。私自身としては、規制自体に反対ではないのだが、規制派も反対派も誰もが追求しようとしなかった、ごくごくシンプルな疑問、「エロ漫画を規制したら性犯罪が減るのか?」ということを、誰もまじめに深く追求しようとしていなかったことを訝しく思っている。


もしこれが、一般企業だとしたら、「エロ漫画で性犯罪が増えているという定量的なデータはあるのか」「規制にはどの程度のコストがかかり、どれだけの性犯罪が減るのか」「規制後にどのようにしてその効果を計測するのか」という論証が不可欠のはずだ。規制派も反対派もそこを十分に(少しは言っているようだが)突っ込もうとしないのは、実におかしな話である。実は規制はのみならず反対派にも、暗黙のコンセンサスとして「過激なエロ漫画が性犯罪の原因になる可能性は否定できない」というものがあったのではないだろうか。規制派はその可能性だけで規制する理由として十分だという本音を、「あなたはこの漫画を自分の子供に見せられますか!?」といった感情的な言葉にうまく置き換え、反対派はその言い訳よろしく、「表現の自由」「親の責任」「なぜ漫画だけ」だの言い続けてきたことが、規制派を押さえることが出来なかった原因だと、私は思っている。


反対派が本当にすべきだったのは、コストと効果の問題を定量的に提示させることのはずであり、無いものは証明できないので、規制と犯罪低減の効果に関するデータの証明責任は都の側にあったはずだ。都はおそらくコストすら具体的に提示できなかっただろう。逆に、都も本当に性犯罪を減らしたいと思うのなら、定量的データをしっかり見せれば、反対派も納得せざるを得なかったはずだ。


だいたい、これだけの討論や会議に費やしたコスト、出版社の離反によるとのイベントの凋落など、いくらコストがかかってるか、分かっているのだろうか。それで、「これだけかかってこれだけ犯罪が減りました」と言えないとするなら、まさに税金の無駄遣いである。単に規制のみが目的にしか見えず、目的と手段を混同しているとしか思えない。本当に性犯罪の低減を目指すなら、本当に規制で性犯罪が減るなら、映画もアダルトビデオも小説も、あらゆる表現媒体に規制を設けるべきである。それをしないのは、石原慎太郎をはじめとする老人達が「漫画は低俗」と思っていることに他ならない。





2010年5月16日日曜日

いまさら『電子書籍の衝撃』について書いてみる


もう発売からだいぶ経っているのに、今更ブログに書くのはいささか気が引けるが、『電子書籍の衝撃』について。

この本に書かれている内容は、大筋では同意である。電子書籍が普及するために必要な3つの要素については異論がない。少し違う意見があるとすれば、佐々木氏はソーシャルメディアの価値を高く評価しているようだが、自分はそうは思わないと言うところか。

はやり廃りの多いネットサービスにあって、著者が自分を表現するソーシャルメディアが長続きするかは、自分には疑問だ。メディアが違えばそこで必要とされる自己プレゼン能力は微妙に異なると思うし、その差違を著者たちは本当にうまく使いこなせるか、という問題もある。佐々木氏自身も「ソーシャルデバイド」という言葉を書いている通り、ハードルは低くはないと思う。それに、本来的には著者の活動や作品の質とはあまり関係ない話ではないか。

ただ、もし佐々木氏が想像するようなソーシャルデバイドが存在する未来がやってくるなら、プロモーションを代行する人が介在する余地も以前として残り続ける事になるような気がする。

多少の異論はあっても、大筋では同意させられたのだが……以下は些末な指摘として受け止められる可能性も多いことを承知で書くが、編集としてはがっかりさせられる点が多かった。著者の佐々木氏が悪いと言うことではない。編集側が対処すべき問題なのだ。箇条書きにして書くと、

1)事実確認の問題
2)引用の問題
3)用語や表記の問題、日本語の問題

が存在する。これらの点はさらっと読み流しても感じられるのだから、編集も本当は気になっていたはずではないか? 文芸書ではないのだから、これらの点は編集が著者に確認すべきではないだろうか。それをしていないことが編集を軽んじているように感じられて、悲しくなった。電子書籍時代にはこういう本が増えて行くのだろうか……。以下、具体的に見て行こう。


1)事実確認の問題

この本に書かれているいくつかの事項は、私には事実かどうか疑わしく感じられる。また、説明が不足しているために、疑問を捨て去ることが出来ない。

たとえば、iTunes Music Storeの成功がメジャーレーベルの凋落を招いたとあるが、これを裏付ける証拠は本文中には出てこない。もちろん、話の本筋から見れば傍流である。しかし、大多数の合意を形成できるほど知られた事実でもないなら、その証拠をきちんと提示するのが筋ではないか。特に、その事実を元にして出版界の未来を語るというのならば。

同様の問題が電子書籍コンソーシアムの失敗について書いた部分にもある。どの出版社も著者に電子化の許諾を取っていなかった、ということは分かるが、許諾交渉をコンソーシアムが薦めようとしても、各出版社で事情が違いすぎて頓挫した、と言うあたりが分からない。どういう事情があって、統一的にできなかったのか、具体的な例がなければ、客観的に不可能だったということを読む側としては納得できない。端折られたように感じてしまった部分である。

また、アマゾンは電子ブックの売り上げでは損をして、キンドルで売上を上げているとあるが、本当にそうだろうか? アマゾンはキンドルの売上でも損をしているように感じる。3G通信代などがそうだ。もし本当に損をしているというのなら、事業モデルとして端末の売上で儲けるように見えるが、そうなのだろうか?? 何らかの客観的なデータが欲しい。


2)引用の問題

数々の引用をつなぎ合わせて、1つのストーリーを作っていく様が、この本を読んでいてワクワクさせられる点であるのだが、牽強付会な引用が散見されるように自分には感じられた。

たとえば、原雅明というジャズ評論家の文章を引用して、コンテンツの「アンビエント」化の意味を物語っているのだが、原氏の言葉「もっと大きなサウンド」の引用の前後が切り取られてしまい、意味が分からなくなってしまっている。結局このもっと大きなサウンドとは何だったのだろう? そしてそれは本当に佐々木氏のいう「アンビエント」を補強するものだったのだろうか。ついでに言うと、アンビエントというのも、あまりにも定義が曖昧すぎて、よく分からないのである。クラウドと何が違うのか?

そのほか、ブログなどの引用が多いが、まるでその意見が大多数であるかのように引用するが、ほんとうにそうかー?と言うのも多い。エディットミュージックマニアの話もそうだが、仲間内の符牒だけで話すマニアは昔からいたし、今も昔も少数派だ。あと、ブログのエントリーがいつのものかというのもきちんと書いて欲しい。


3)用語や表記の問題、日本語の問題

そのほか、妙な表現や用語・表記の問題もある。些末なので読む人にはどうでもいいかもしれないが、編集者的にはとても気になる。

たとえば、iPadの説明をするのに「伝説のデバイス」と形容しているのだが、発売していないのに伝説とはなんだろうか。伝説とは起こった出来事が後の世に語られるようになるという言葉であるからして、おかしく感じられないだろうか? 発売される前から伝説になることが予想された、といった言い方なら分かるのだが。

エコシステムという言葉も気になる。生態系と言いたいならば英語にしたらエコロジーではないか。そもそも、この言葉も比喩なのだから、こういう造語っぽい言葉を使う意味はあるのだろうか。

「『ボクノタメニナイテクレ』というブログは、こういうエントリーを書いている。」と文中にあるが、ブログがエントリーを書くのではなく、作者がエントリーを書くのだから、これは日本語としておかしい。普通の編集者ならこれを校正するはずなのだが……。

統一表記も妙だ。「ロキシー・ミュージック」なのに「ピンクフロイド」「キングクリムゾン」。中黒はどういう規則になっているのだろう?

ポップパンクグループ、と何かのバンドの紹介にあったが、ポップパンクというジャンルを初めて聞いた。エディットミュージックも同様。また、まつきあゆむ紹介のところにある、「エッジの効いたサウンド」というのは何を意味しているのか? なにかのエッジが効いているというのは、どういう意味か? 全体的に、佐々木氏は音楽に対して使っている形容詞・用語が微妙におかしい。自分は音楽雑誌の編集をしていたのでよく分かるが、こういう形容をミュージシャンは露骨にいやがるので、普通は使わないものである。

以上、些末だったのだが、異論を語るにも、同意を語るにも、読んで損はないと思う。ぜひ、佐野眞一あたりにも同様の書籍を書いてもらいたいものだ(かつてはデスクトップの概念すら理解できなかったと言うが……)。

2010年3月28日日曜日

電子書籍時代の印税契約



電子書籍のビジネスモデルについてエントリーを書こうと思ったら、すでにきちんとまとめられたエントリーがあったので、それを紹介しつつ、内容を補足したい。


http://satoshi.blogs.com/life/2010/03/books.html


Life is beautiful―iPadのインパクト:電子書籍のビジネスモデル


記事に関して、いくつかコメントすると、この記事にて引用されていた印刷の価格構成だが、「製版・写植代:12%」というのは少し古い情報だと思われる。DTPになって写植がいらなくなったからだ。あと、記事を読んで取り次ぎ不要を強調しすぎな気がした。というのも、そもそも取次が介在する余地がない、というよりAmazonやらAppleが取次兼書店となるからであり、そこに取次を敵視する表現を使う意義はないと思うからだ。


さて、私が補足したい内容だが、それは出版社と著者との関係である。上記ブログのエントリー末尾に「電子出版の時代に出版社が生き残るためには」として3つの項目が書かれているが、重要なのは支払いに関する部分だ。


紙の本では、これまで出版社が著者に払ってきた印税は、刷り部数×定価の10%である。これが、電子書籍になったらどうなるか。電子書籍には刷り部数というのが存在しない以上、売れた部数×定価のn%を一定期間ごとに支払いすることになるだろう。しかし、文筆業を経験した者であれば、これはちょっと……と思うのではないか。


著者にとって見れば、本を書くのはコストを先に負担している状態なので、できればすぐにマネタイズしたいと思うのが自然である。とすると、出版社と著者の契約形態として、あらかじめ想定部数分の印税を先渡しして、その部数を超えたあたりから部数あたりの印税を払う、というやり方もあり得るはずだ。最近は紙の本でも、刷りに対して極端に売れない場合があるので、保証部数(最低何部は売れるだろうという設定)で印税を払うケースもあるが、それに近い考え方だろう。電子書籍時代の出版社は、著者の収入を安定化するという機能も担うことになるのではないか。


印税を先渡しするリスクは当然あるわけで、その分、印税を低く設定したいという交渉もありえるはずだ。電子書籍時代には、これまでのように業界慣習の10%という横並びの価格設定は通用しない。部数を出せる著者は印税のパーセンテージが高くなり、知名度のない著者は低くなるということもあるだろう。同様に著者の側から見たら、あそこの出版社はパーセンテージが低いとか、向こうは高いとか、逆の評価もありえる。いずれにせよ、電子書籍が本格的にスタートすれば、しばらくは出版社と著者の双方で印税契約の模索が続くことになるだろう。





2010年3月8日月曜日

アゴラブックスはイノベーションか?



先週、経済学者の池田信夫氏が電子書籍ベンチャーを手がける会社「アゴラブックス」を立ち上げたことが、ネットで話題になった。以前から池田氏は、日本にも電子書籍の波が押し寄せていて、出版界の産業構造が変わろうとしているという主旨のことをブログ上で書いていたので、この展開は別に驚くに当たらない。


だが、「いったいどういうビジネスモデルなんだろう」ということが私には大きな疑問だった。池田氏は既刊本を電子書籍化する「著作権エージェントは出てこないだろうか」とブログで書いていたので、それがビジネスモデルと思ったのだが、「どこの馬の骨ともしれないベンチャーと組むよりも、自社でやってしまった方が利益率が良い」と出版社は考えるのが自然ではないだろうかと思っていた。そう思っていたら、J-castから興味深いニュースが出てきた。


http://www.j-cast.com/2010/03/07061675.html


まだ正式に事業展開を明らかにしたわけではないが、この記事をまっすぐに解釈するなら、彼らのビジネスモデルは「第3の電子書籍売り場を作る」ことだったわけだ。これは、既存出版社が抱える「アマゾンやアップルに流通を握られる」とか、「著者が出版社を通さずに直に本を売りだすのでは」という危機感に対応するものだろう。出版社の大同団結がうまくいかなそうだと言うこともあり、第三者の立場から冷静に状況を分析でき、且つ、技術的なノウハウを持っている、あるいはノウハウを持っている人たちを知っているアゴラブックスが入っていける余地がここにあったわけだ。


でも、これこそ池田先生が言う、ガラパゴス化のような気がする。既存の出版社の産業構造を維持させる方向に力を傾けているように、私には思えるからだ。出版界の流通構造を踏襲しない(=取り次ぎを通さない)ということは大きな意義だが、既存の本屋をそのままネット上に置き換えることを目指しているように見えて、そこにイノベーションは感じられない。


既刊本を本当に皆は電子書籍で読みたいのだろうか。たしかに、これはKindleで読めたら便利だよなという本は存在する。けれど、本当に電子書籍化の意義があるのは、電子書籍ならではの本なのではないだろうか。これまで紙では出てこなかったような本が電子書籍で出てくる、そしてそれが新しい需要を喚起する、それこそがイノベーションというものではないだろうか。


たとえばePub形式はスクリプトを仕込めないなど、インタラクティブな要素はあまり考慮していないので、フォーマット的には少しも新しくない。電子書籍はインターネットほどに新しくないのだ。よって、月並みだが、編集の力こそが著者と売り場の間に出版社が入りうる余地だと思うし、それは電子書籍時代になっても変わらないものじゃないかと思っている。編集が必要とされなくなれば、出版社は滅びるだけしかないだろう。


とはいえ、池田先生もまだおもしろいことを仕込んでいるかもしれない。今月の25日にアゴラブックスのビジネスモデルが発表されるという。月末にiPadも発売になると言うし、この3月は出版界にとって激動の1ヶ月になるのかもしれない。


P.S.ちなみに、アゴラブックスが提携を進めているという出版社は、魔法のiらんどを子会社化したアスキー・メディアワークスだと予想しているが、どうだろうか。池田先生もWebアスキーに連載を持ってるしね。


追記・5日にiPadは四月と発表が出ていたんですね。気がつきませんでした。





2010年2月10日水曜日

マスコミが騒ぐほど電子書籍の時代はすぐには来ない



今週頭、Kindle2がウチにやってきた。もともと「電子書籍なんてまだまだだろ」と思っていたのだが、アスキー.jpの記事に興味を持って、つい購入してしまったのだ。ネットにもつながる通話料無料のモバイルデバイス、というのが、非常に魅力的だったし、ちょうど電車の中などで外国書籍が読みたいと思っていたので、3万円以下なら高くはないと思った次第。さて、実際に使ってみた印象なのだが、これは確かに良くできた端末だが、電子書籍の時代はまだまだ来ないなという思いを強くすることになった。


まずKindleの長所・短所を挙げてみよう。


<長所>


  • 3G端末なので直に電子書籍が買える

  • E-inkで見やすい

  • バッテリー持続時間が長い

  • PCより軽い

  • Webも見られる

  • <短所>


  • 日本語が使えない(ハックで日本語表示はできても、入力はまだできない)

  • E-inkなので画面遷移が遅い

  • 文庫より重い

  • Webのようにキーワードで検索とかしにくい

  • 意外にKindle Storeの品揃えが少ない(もちろん日本語無し)

  • 上記のような端末の長短はすでにWebのあちこちで語られていることだと思う。だが、Kindleを端末本体だけで見ていてもユーザー体験や市場への影響度を理解することはできない。書籍の購入方法や、出版社にとっての著作権保護など、ビジネスモデルの観点から見て初めて解き明かせると思うのだ。Kindleというビジネスモデルの特徴は何か。一番大きな特徴は、文庫や単行本の代替品という思想で作られた製品だと言うことだと私は思っている。


    書籍というパッケージをそのまま電子的に置き換えた場合、そのビューアーというのがKindleの位置づけである。基本的に書籍を頭から終わりに向かって読み進めることを前提としてみれば良いデバイスであり、ユーザー体験も悪くない。しかし、たとえば音声や動画などマルチメディア化したユーザー体験を求めたり、文中の語句をネットで調べたり、好きなところだけ飛ばして読んだり、ということを考えたとき、現状のKindleはまだまだという印象を受ける。E-inkの仕様から、カラー化も難しいらしい。となると、ますます文庫の代替と言うことになる。


    逆にiPadはこういう問題点に対応した製品だろう。見つけた語句での検索やとばし読みなどもできる。音声や動画も問題ない。雑誌のような媒体を再現するにはうってつけだ。しかし、それなら何で電子書籍(ePub)なのか、Webでいいではないかとツッコミたくなる。WebならPCでもiPadでもよその端末でも読める。電子書籍というパッケージにするのは、ユーザーやメーカーの先入観と幻想、そしてDRMの問題でしかないのではないかと思ってしまう。そういう意味から、iPadは帯に短したすきに長しの隙間商品くさいなと思ってる。


    昨年末に友人とした会話を思い出す。アップルが電子書籍デバイスを出すと彼は言い張り、そんなもん作るのかという私と、ちょっとした言い合いになった。彼はiPadへの期待からか「電子書籍が流行ってる」と言いだすので、ついムキになって「どこで流行ってるんだ?そんな事実はないだろ」と言い返したのだ。ところが、今年に来て電子書籍元年みたいに言われ始めたので、これは自分の見込み違いだったと思っていたのだが、実際にはやはり私が思った通り、アメリカでもそれほど流行っていないようだ。たとえばKindle Storeを見てみると、ランキングの上位は名作系小説の詰め合わせばかりで、話題のベストセラーは乏しい。フランス語書籍はともかく、英語書籍も思ったほどはバリエーションが無い。点数はあっても同じ作品の別エディションばかりだ。おそらくは著作権フリーの書籍を売っているのだろう。商品が少ないのは、需要がない、つまりまだユーザーが少ないからだ。アマゾンも持ち出しでがんばっているようだが、まだそこまで市場が成熟していないようで、だからこそアップルも参入しようと思ったのだろう。


    たとえ日本でも電子書籍が販売されだしたとしても、結局、マスコミが言うほどiPadもKindleも日本の出版界へのインパクトは強くないと思う。iPadとKindleで日本の出版界が焦土になるなんて言ってる人がWebには結構いるけれど、電子書籍は常に「それならWebのほうがいいじゃん」というツッコミどころがつきまとっている。Webのほうが、検索もとばし読みも加工もしやすく利便性が高いからだ。パッケージであることを止めない限り、電子書籍は常に紙の書籍の代替でしかないが、パッケージを止めたらWebに近づくだけなのだ。単なる代替であるならば、今ある書籍から移行したいと思わせるだけのメリットを示さないと、わざわざお金を出して電子書籍端末を購入しようと思うのは、私のような電子書籍の未来に興味がある人か、ガジェット好きの人間にとどまるだろう。





    クリムゾンのニューアルバム?「The Reconstrukction of Light」

    クリムゾンが現行ラインナップでスタジオアルバムを作る予定はないと発言していることは有名だが、クリムゾンの最新スタジオアルバムと言えるかもしれない作品が登場した。それが6月発売されたばかりの「The Reconstrucktion of Light」だ。これは「The Constr...